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2023年2月6日

塾長ブログ, 未分類

妙顕寺〜法華宗と花開く上京の町衆文化

妙顕寺は元亨元(1321)年に日蓮の六老僧の一人である日像によって建立された、日蓮宗のお寺です。日蓮は入滅の際、日像に京の都での日蓮宗の布教を託しました。

日蓮宗はその後、裕福な造酒屋である柳屋仲興が法華宗に帰依するなどして、だんだんと京の都の有力な町衆に広がっていきました。

比叡山延暦寺からの圧力を受けつつも、応仁の乱などの混乱を経て、武力を持つようになり、さらには町衆だけでなく近衛、九条、鷹司などといった有力貴族の中にも支援者が現れるようになり、京での影響力を得ていきます。

町衆は商工業者の自治共同グループですが、寛正元(1460)年には彼らの大半が日蓮宗に帰依したといいます。

日蓮宗が現世主義で現世利益を求めた教義であることと、日蓮が、末法の乱れた世を救うためにさまざまな過酷な法難を乗り越えた生涯を送ったことなどを、営利のため困難に立ち向かって力を尽くす日々を送る町衆たちの心情を惹きつけたのだと言われています。

一時は上京、下京を合わせて60もの日蓮宗寺院が建立されましたが、天文5(1536)年の天文法華の乱によって、下京が焼き払われたことによって上京での法華宗の持つ役割が多くなりました。

技術力と政治力とを兼ね備える町衆は、権力者からの需要を独占するようになり、それに伴い、文化の大きな担い手となります。

例えば本阿弥光悦で知られる本阿弥家、絵師である狩野家や長谷川等伯、茶碗師の樂家など、日本文化を代表する人々が、日蓮宗によって、町衆同士のつながりを持っていました。

そのうちの一つである呉服の雁金屋は、江戸時代の絵師である尾形光琳の生家です。狩野家の流れを汲みつつも、流派にとらわれず自由な画風を持った光琳は、絵師としての名声と富を得ます。

いまでは「琳派」としてその芸術は私たちに感動を与えてくれています。

妙顕寺には光琳が手がけた庭園があったそうです。天明の大火(1788年)の後に彼の作品を模した庭が造られました。光琳の百回忌に酒井抱一が奉納した「観世音図」ゆかりの「抱一曲水の庭」では、花々や水琴窟を楽しめます。

このように妙顕寺は、長い年月で苦難を乗り越えながら生み出され、受け継がれてきた人々の営みを、ともすれば単なる「観光スポット」「伝統文化」とひとくくりの言葉で捉えがちになる私たちに、歴史的背景や文化的教養の学びの入り口へと誘ってくれます。

目の前にある建造物、芸術の数々の持つ人々の思いや願いは、造られた当時はもちろん、時代が下ったいまとなっても、形は変わることこそあれ、その強さや大きさは変わらずに受け継がれていくことでしょう。

2023年1月8日

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智積院障壁画からみる“個“の長谷川等伯

等伯が出身地の能登から京の都にやってきたのは、33歳のことだったそうです。それまでは絵仏師として活躍していましたが、仏画だけでなく絵師としての仕事を京に求めたといいます。

その頃、都では狩野永徳の狩野派が、時の権力者である信長や秀吉、さらに朝廷からの絵画の依頼を一手に引き受ける組織となっていました。もちろん等伯に、すぐに絵師としての大きな仕事があったわけではありませんでした。

新天地で新たに自分の力を試そうとするなら、過去を捨てて活動することを思い立つ人も多いでしょう。このときの等伯の心境は定かではありませんが、まずは自身ならではの強みであった「絵仏師」としてのスキルをチャンスに変えようとしたようです。

自身が帰依する日蓮宗である、本法寺に仕事のツテを得たとみられています。また、信長の菩提寺となっている大徳寺総見院の障壁画を描いた際には、茶人としても知られる堺の商人たちのツテだったのではという見方もあります。

このように京での活動を続けていた等伯は、53歳のとき、秀吉からいまの智積院に障壁画として残されている絵を依頼されます。それは、秀吉の子であり3歳で亡くなった鶴松の三回忌法要が行われる部屋の障壁画でした。

等伯は33歳から53歳まで、実に20年を京で過ごしていましたが、都での狩野派一強体制に入り込むことはできずに、たとえば御所の障壁画を描く仕事は、その狩野派の強い反対にあったこともあります。

狩野派といえば、室町・戦国・安土桃山、そして江戸と続いた画家集団で、先祖から伝わる絵の手法を忠実に継承する画風です。永徳は安土城、大阪城、聚楽第の障壁も描きましたが、前述の秀吉からの障壁画の依頼の時点で、彼は死去しており、狩野派は足元が揺らいでいました。鶴丸の法要のための障壁画も、永徳の死がなければ狩野派が請け負うはずだったとされています。

自分を妨害する人物がいなくなったことは等伯にとって大きなチャンスとなり、結果として後世に、いま智積院に残る「楓図」をはじめとする傑作障壁画群を残すこととなりました。

等伯は狩野派とは異なり、組織的に弟子を持つことはなかったといいます。そのため、決まりきった画風を持たず、等伯の芸術性をそのまま絵に表すことができました。そもそも、もとは絵仏師であった彼が京に出てきて、動植物をも描いていたことからも、その自由度や幅の広さが分かります。

等伯について述べられた言葉に、このようなものがあります。

「さまで利発なる老人とも、見えざねども、その道に心をつくし修行せし者の云ふ事には、よくきこえたる事あり」(『結縄集』)

「老年二及ンデ筆力衰エズ、麁悪ノ瑕悪有リと雖ドモ又豪気の風体有リ。時輩之二及ブ者ナシ」(『本朝画史』)

これらからイメージされるのは、等伯の絵描きとしての矜持と、権力や組織とは距離を置いた生き方です。周りには利発な老人とは見えなくても、粗末で質が悪いを言われても、絵の腕前だけは確実に認められていたというのは、画家にとっては何よりの賞賛であるはずです

いま智積院にあるこれらの障壁画のうち、とくに「楓図」「松に黄萄葵図」にみられる”楓以外””松以外”の植物描写は、狩野派にはない、等伯ならではの独創的な描写であると言われています。

メインとなる「楓」や「松」こそ、狩野派の影響を受けた(つまりよく似た)描かれ方をしていますが、圧倒的な違いはそれらの木の根元に描かれた草花です。「抒情的」と表現される、まるで等伯の草花に寄せる感慨深さや切なさ以上の感情が表れた描写表現が、等伯の強烈な”尖り”となっています。

その背景には、等伯の持つ狩野派と異なる独自性だけでなく、鶴松の法要のための障壁画の制作にあたり、等伯の息子久蔵の史が時期的に重なってしまったことも要因だと言われています。

絵の依頼主である秀吉は、当然鶴松を想っていたでしょう。そしてその気持ちは当然第三者も理解していたと思われますが、愛息を亡くすという境遇を本当に「共感」できたのは当時の等伯をおいてほかになかったでしょう。

久蔵は等伯とともに、この障壁画の仕事を受けて制作にとりかかっていました。うち「桜図」は久蔵によるもので、彼は将来を嘱望されながらも、この絵の完成直後に急死してしまいました。鶴松の法要の2か月前だったといいます。それでも等伯はこの仕事を最後まで全うしました。

仮に狩野派がこの障壁画を請け負っていた場合、等伯のような「個人のできごと、感情の揺らぎ」は絵画に反映されることはなかったでしょう。それほど狩野派は組織的かつ画一的な画風であり、対する等伯は”個”の絵画でした。

つきつめてみると、等伯のこれらの逸話からは”個”を巧みにバランスよく、それでいてまっすぐに仕事にも反映させる度量が「傑作」を生みだすのだということに気づかされます。

現代を生きるわたしたちや、これからの時代の社会を担う若者のなかには、仕事とプライベートの線引きを明確にすることに意義を見出したがることが多いです。とはいっても、完全に「仕事は仕事」」と割り切って組織の中での役割に徹している”だけ”の人間には、思い入れのある大切な依頼であればあるほど、気持ちのすれ違いが起きることもあるでしょう。

人間力、人間性といえばそこまでですが、やはり”個”の重みは仕事を通してであっても、周囲への影響力、感動を誘う力に昇華するものだと思います。等伯の障壁画群は、いま智積院で私たちに等伯の絵画スキル以上に、等伯自身を語ってくれています。

2022年7月18日

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北野天満宮〜梅は飛ぶとは何事か

北野天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真を祀る神社です。

彼は代々学者の家系に生まれ、彼自身も漢籍、和歌、書の才能にあふれていただけでなく、優れた政治家でもありました。いま「学問の神様」として多くの人にとっての受験シーズンの支えとなっているのも、頷けますね。

ところで彼が政治抗争に巻き込まれて太宰府に流罪となった際に詠んだ和歌はとても有名です。

東風吹かば
思ひおこせよ
梅の花
あるじなしとて
春を忘るな

そして、主人を追って太宰府まで梅の木が飛んで行ったという、いわゆる「飛梅伝説」につながっていきます。でもちょっと待ってください。梅の木がどれだけ道真を恋しがったとしても、木そのものが本当に飛ぶわけがない。「伝説」を本当の意味で楽しみたいなら、やはり伝説が生まれた背景をも知っておくことも大切です。

実はこの歌、「北野天神縁起絵巻」(道真の伝記、死後の祟り、天神社の創建の由来などが書かれたもの)のには、もう一首収められてセットで残されています。詞書も含めて紹介しましょう。

住み慣れ給いける紅梅殿の懐かしさのあまりに、心なき草木にも、契りを結び給いける

東風吹かば
匂いおこせよ
梅の花
主人なしとて
春を忘るな

桜花
主を忘れぬ
ものならば
吹き込む風に
言伝はせよ

 

さて、この御歌の故に、筑紫へこの梅は飛びまいりたちとぞ、申し侍るめる

道真が心を寄せ、残してゆく家族や都への思いを託したのは、梅の花だけではなく桜の花もあったとされているのです。なのに、その道真の思いに応えて飛んで行ったのは、梅だけ。桜はいったいどうなったんでしょうか。

当時の人々にとっても、梅だけが飛んで行って桜については言及されないというこの内容については、なかなか落としどころが見つけられなかったそうです。

時代が下って江戸時代初期の『洛陽北野天神縁起』では、先ほどの梅と桜の二つの歌に、こんな詞書がつくようになりました。

哀れなるかな、梅は万里の波をしのぎて、安楽寺へ飛びてけり。桜は三春の風にも開かず、すなわち枯れにけり、飛梅枯桜とはこの時の事とかや。

梅は道真を慕って太宰府へ飛び、一方で桜は道真がいない嘆きから、春になっても花を咲かせることなく、そのまま枯れてしまった。後付けとはいえ、誰もが納得し感動できるであろうお話となっています。

 

伝承とは、ある事件が起きた際にすぐそのまま伝わったものではなく、その後時間をかけて作られ、語りづがれながら、「いかにも本当だったかのように」手が加えられていったお話です。

もはやこの段階では、太宰府への左遷を言い渡されて嘆く道真の姿以上に、なんとかして「梅と桜のバランスを取ろう」と悪戦苦闘する縁起の書き手たちの姿のほうが、強く私たちの印象に残ります。

歴史において「史実は事実である」という揺らぎようのない側面もありますが、一方で史実と同じくらい「作られた歴史」もまた揺らがない土台となっていくこともあります。一見相反するこれらの動きを、俯瞰して読み取ることこそが、歴史を意義ある学びにする上では重要なのです。

さて、ところで本来飛ぶはずのない「飛梅」は、どうして飛んだこととなったのでしょうか。実はここのところはどうやらはっきりとはされていないようですが、これも後世によって作られたお話です。12世紀末に平康頼によって書かれた『宝物集』上には、「其後此歌ニ依テ、彼梅、主ヲ慕ヒテ安楽寺ヘ飛ヒテ」とあることから、経緯は不明でも、すでにこのころには「梅は飛んだ」という伝承が出来上がって広まっていたとされています。

先ほどの「梅は飛んだ、では桜はどうなったのか」という素朴な疑問と、後の時代の人たちによる辻褄合わせは、そもそもなぜ梅が飛んだか、ということが説得力を持って受け入れられなかったがゆえの動きだといえます。

興味深いのは、飛んだ梅の木と枯れてしまった桜の木に加えて、また他の植物が伝説に入れられていったことです。室町時代末期の『天神絵巻』には、都で梅と桜とともに道真が愛ででいた松の木が、太宰府行きに際してつれない態度を取ったので、道真が「梅は飛んできてくれた、桜は自分を思って枯れてしまった、なのに松はつれない様子だ」と言ったら、松はとうとう、梅がしたのと同じく太宰府へ飛んで行ったということが書かれています。

面白いですが、ここまでくると完全に創作の域に達してしまったようで、かえって興ざめしてしまう人も多いのではないでしょうか。脚色も過ぎれば逆効果ですね。

ただし、どうしてもここで「松」を仲間に入れておかなくてはいけなかった理由もあります。それは、元々天神信仰においては「松」がシンボルであったということです。道真が祭神となり、「飛梅枯桜」の伝承がなされるにつれて、「それなら松だってエピソードに入れておかなければ」との思いが、きっと誰かの心に湧き上がったのでしょう。

「東風吹かば」の歌は、中学生や高校生向けの古文の設問にもよく取り上げられますが、こんな深い背景を合わせ持っていたとは知りませんでした。実は桜も松もあったんだよと、天満宮を訪れるときにはぜひ思い返したいですね。

2022年5月4日

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醍醐寺〜秀吉の栄華と憂いの”花見”

醍醐寺と聞いて思い浮かべるものは、なんと言っても桜。紅葉ももちろん絶景ですが、やはり「醍醐の花見」という言葉に象徴される、桜の季節の醍醐寺は、それこそ春の「醍醐味」といえます。

その「醍醐の花見」は慶長3(1597)年、秀吉によって大規模に行われた花見です。自身の死の前年だったことから、死への恐怖に抗うためとも、死を悟ったためともいわれています。

桜の花が一気に満開になったかと思うと、あっという間に美しく散っていく。日本人にとっては昔から、桜は美しい一方で「死」をはっきりと意識させてくれる存在だったのでしょう。

現代において花見といえば、満開の桜を見ながら飲めや歌えの宴会をすると思われがちですが、その原型を作ったのが秀吉の「醍醐の花見」とされています。主催者である秀吉自身による、奇抜なアイデアと周到な準備によって、人を楽しませる趣向に特化した花見となったわけです。

醍醐の”花見”は”茶会”だった

醍醐の花見は、秀吉と正室のおね、側室たちをもてなす茶室が8つも設けられました。

天正15(1587)年に秀吉によって開催されていた北野大茶の湯が、茶の湯を好む者であれば身分関係なく、誰でも茶屋を造って楽しむことができたのとは対照に、醍醐の花見での茶会は限られた人間しか参加ができませんでした。

秀吉の人たらしのイメージは強烈なものですが、そのような開放的な性格の秀吉も、この最晩年の「醍醐の花見」は大衆とは一線を画して開催しました。

秀吉はこの花見を、朝鮮出兵をはじめとする自身の抱える鬱々とした苦悩の日々の憂さ晴らしとするために催したともされており、ある意味で自分と家族、近しい者たちのためだけの特別な企画だったといえます。

 

 

美しく着飾った女性たち

この花見においては、女房たちの装束一人あたり、たとえば豪華な小袖と帯が三つずつ、それが1,300人分。女房たちはお色直しもしながら着飾り、そして美しさも競うことになったのでしょう。

驚くべきことに当日は、そのせっかくの花見の席に、息子秀頼や前田利家以外の男子は近寄れませんでした。三里(約12キロメートル)も離れた場所から遠巻きに見物するように秀吉に言われたといいます。彼らのため息が聞こえてくるようですね。

とはいえ女性を、男性の目からあえて遠ざけたところで、美しく着飾った姿によってワイワイ楽しませようというアイデアは、やはり秀吉らしいというべきか、女心をよく知っているなと感心させられますね。

ちなみにその大勢の女房たちの装束すべての仕立てを命ぜられたのは、薩摩の島津氏。いまでいうところの40億円ともいえる経費のしわ寄せは、結局薩摩の農民たちへの年貢の取り立てなどに反映されていくことになってしまうのですが・・・。

ふやせよ桜

もともと「醍醐の花見」以前から、秀吉は桜を愛でに何度も醍醐に通っていました。「花見」を思い立ってから、桜の木を数百本(700本とも)植えさせて、豪華な花見をするにふさわしい場所として手を加えていったといいます。

 

皆で花見をしよう、さてそれならば、桜をもっと植えよう!この秀吉の無邪気ともいえる大胆な発想は、彼に死期迫っている事実と重なったことにより、私たちに複雑な感慨深さをもたらします。

先述のとおり、この醍醐の花見は、秀吉が妻たちと子の秀頼と人生最後の楽しい時を豪勢に過ごす場でした。その晴れ晴れしい一日、秀吉の気持ちはいかばかりだったのでしょうか。

恋しくて
今日こそ深雪花ざかり
眺めに飽かじ
いくとせの春

秀吉がこの日詠んだ歌のひとつだと伝わっています。

満開の桜の花を雪に見立てると同時に、醍醐寺の山号を「行幸(みゆき)があった」ことにちなんで「みゆき山」と変えるのはどうだろうかという、秀吉の思いにより「深雪」との言葉が入っているのだそうです。

醍醐寺は実際に、その後「深雪山」の山号を持つようになりました。

秀吉の栄華の象徴でもありながら、晩年の憂いや翳りもよみとれる醍醐の花見。そして彼が家族とごく近しい人たちを楽しませるためだけに遊んだ花見は、一方で大名たちの静かな憤りが聞こえてくるような不穏さと、秀吉亡き後に待ちかまえていた動乱の予兆となるのです。

2020年11月2日

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廬山寺〜紫式部の「眼」が見た人々と自己

京都御所の東側のそばにある廬山寺は、紫式部が『源氏物語』を執筆した場所として知られています。

紫式部は藤原為信を父に持ち、「学者肌の素朴で地道な生活」を送る家風の中で育ったといいます。また、幼い頃に母や姉を亡くしたこともあって、内省的な性格であったそうです。

また、当時漢籍は男性が身につけるべき教養でしたが、父為信は、式部の弟にそれを教えていたものの、そばで聞いていた式部のほうが理解が早かったので、「娘でなく男であったなら」と残念がったという逸話が残っています。

さて、誰もがよく知る光源氏が主人公のあの『源氏物語』は、まさに式部の代名詞です。「紫」式部と呼ばれるようになったのも、この物語の登場人物「若紫」に因んでいます。

『源氏物語』をめぐるエピソードは興味深いものが多いです。たとえば、実は光源氏のモデルとされる人物は6人ほどいます。

光源氏は、いわば彼らの魅力が結集したキャラクターなのです。なるほど、源氏が当時の男女誰もが憧れるスーパースターであるのもうなずけますね。

式部の「人々を観る眼」は非常に写実的かつ俗っぽく、くすっと笑えてしまうほどでです。『紫式部日記』には、ともに一条天皇の中宮彰子にお仕えする女房たちや、清少納言について、式部がどう捉えていたのかがよく分かる記述があります。

少しご紹介しましょう。

大納言の君は、いとささやかに、小さしといふべきかたなる人の、白ううつくしげに、つぶつぶと肥えたるが、うはべえはいとそびやかに、髪、丈に三寸ばかりあまりたる裾つき、かんざしなどぞ、すべて似るものなく、こまかにうつくしき。顔もいとらうらうしく、もてなしなど、らうたげになよびかなり。

「大納言の君は、とても小柄で、小さいといったほうがいい人で、色は白くかわいく、つぶらに肥えている人が、見た目にはとても体つきはすらっとしていて、髪は背丈に三寸(約9センチ)ほど余っている裾のようすや髪の生えぐあいなど、どれも類のないほど、すみずみまで行き届いて美しい。顔もとてもかわいらしくきれいで、振る舞いなども可憐で上品で穏やかだ。」

また、清少納言についてもこのように。少々長いですが、興味深いので引用します。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし。行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。

「清少納言はまさに得意顔でとても偉そうにしている人。あれほどかしこぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ると、まだとても足りない点が多いです。このように、人よりも特別でありたいと思ってそうしたがる人は、きっと見劣りがし、ゆくゆくは悪くなっていくだけですから、いつも風流ぶるようになった人は、とても寂しくて退屈なときでも、しみじみ感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないうちに、自然とそうであってはならない不誠実な態度にもなるのでしょう。その不誠実になった人の行く末は、どうしてようことがありましょうか。いえ、きっとよくないはずです。」

紫式部がここまで辛辣であるのには、清少納言と同様に自身も漢籍の素養があったことや、内省的な自分と正反対のような清少納言の振る舞いに、大きく心が乱されたことが要因ではないかと思います。

ある特定の人に心乱され、嫌いまたは憎いという思いを抱くとき、その相手に自己を投影させていることがよくあるという話を聞いたことがあります。清少納言の人物像は、もちろん紫式部の書いたこの一節でのみ決まるものではありません。

むしろ、一貫して中宮定子と藤原道隆らの凋落を感じさせることなく、自身の「さかしだち」のエピソード以上に、定子の優しさと魅力をつづった『枕草子』からは、何一つ敬愛する女主人に寄せ来る現実の暗さを感じさせまいと覚悟に満ちている清少納言の表情が浮かぶようです。

紫式部は以上のように、周囲の女房たちについてあれこれと述べる一方で、理想的な「人(=女性)」の心持ちと振る舞いについて残しています。

様よう、すべて人はおいらかに、すこし心おきてのどかに、おちゐぬるをもととしてこそ、ゆゑもよしも、をかしく心やすけれ。

「すべて女というものは、見苦しくなく穏やかで、少し心持ちもゆったりして、落ち着いていることをまさに基本として、品位も風情も趣深く安心です」

現代においては、「人」は女性に限らず、男性も含めたすべての人にあてはまる理想像といえるでしょう。とはいえ、式部の言葉は、自分自身に向けた戒めにも似たもののように感じられます。

『紫式部日記』には、多くの場合「『源氏物語』の作者」とだけとらえられがちな彼女の、内面の葛藤や思いがこまかくつづられています。

その自身の複雑な思いに翻弄されまいと、必死に言葉を紡いだ彼女の憂いに満ちた表情は、清少納言が『枕草子』で見せる覚悟の顔つきにも似た、生きた人々の直面した苦悩や思いを伝えてくれます。

2020年10月24日

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銀閣寺~創造と破壊そして再建の歴史の中で

銀閣寺は正しくは「慈照寺」といい、「銀閣寺」は通称です。室町幕府の8代将軍足利義政が、執念ともいえる情熱を注いで造営した山荘です。とはいえ、義政の死後すぐに荒廃してしまい、現在に伝わる姿は、江戸時代に再建された当時からのものです。

別荘造営は長く義政の夢であり、銀閣寺の造営に着手する1482年以前は、東山の恵雲院(いまの南禅寺のあるあたり)に別荘を建てることを計画し、準備していたといいます。それが、応仁の乱によって中断したのち、再び造営を始めます。

銀閣寺の造営にあたっては、用地と用材をめぐる義政の横暴が目立ったといいます。

この土地は比叡山延暦寺の末寺であった、浄土寺があった場所でした。義政はよほどこの土地が気に入ったようで、無断でこの土地を没収して造営をすすめようとしたそうです。墓の並ぶ霊地であった浄土寺をこのように扱うことに、「仏罰に値するものである」と延暦寺が抗議をしましたが、結局覆ることはありませんでした。

応仁の乱後の混乱によって、造営のための財力には窮したといいます。義政は、課税によっても賄えないこの費用を、寺社・公家・豪族・民衆すべてに負担を強いて集め、どんどん費やしていきました。

良く言えば国を挙げて、悪く言えば多くの犠牲の上に造られた、義政の理想の別荘だといえます。

庭園に使われた檜や蓮、松、梅は、都または都周辺の寺から運ばせました。多くて二千人もの人夫が無償で駆り出されたそうです。また、石は室町第(花の御所)跡、仙洞御所跡、金閣寺に無償で運ばせました。

それぞれの寺社、旧跡の景観は、こうして人の手が加わったことで人工的なものに大きく変わったそうです。

義政の銀閣寺造営は、終始このように進められたことで、多くの人の反感を買いました。義政が病気によって完成を待たずに亡くなってしまったのはよく知られていますが、銀閣寺はその翌年の段階にはすでに荒廃しており、破壊されたり材木が持ち去られ始めたりしていました。

義政の死後80年で、完全に破壊され荒廃していたといいます。

いま私たちが見ているこの銀閣寺の姿は、参道や池の場所が同じであること、東求堂(とうぐどう)が存在してたことのほかには、義政が建造した当初とはまったく異なります。

参道や銀沙灘(ぎんしゃだん)、向月台などは、一説には同じ時代の「西欧整形式庭園」の手法が応用されてるのだとされています。

一方で、東求堂は「茶室の起源とも、近代和風建築の原型ともなった」といわれ、東山文化を代表する建築物となっています。

いまの歴史学においては、北山文化と室町文化をひとつとみなす「室町文化」と称するそうですが、この室町文化は戦国期を経て、京の都のみならず地方に伝播していきました。

歴史をみるときには、その時点でのその影響や評価だけではなく、その後に与えた影響をすべてを鑑みて判断すべきだという意見もあります。

銀閣寺は、造営のいきさつは義政に横暴のエピソードが目立つとしてもやはり、現代の「日本文化」「伝統文化」を形作った象徴的存在であることに変わりはありません。

なお、義政の長男、9代将軍義尚は若くして他界しますが、その義尚の菩提を弔うために、東求堂から望む山の面に「大」の字を掘って新盆に火を灯して、精霊を送ったそうです。これがいまの「大文字の送り火」につながっています。

銀閣寺の美しい庭園を眺めながら、現代に続く歴史の大きなうねりに思いをはせてみるのも、ひとつの愉しみ方です。