講師ブログ

2022年5月4日

真花塾にほん伝統文化プロジェクト, 講師ブログ

醍醐寺〜秀吉の栄華と憂いの”花見”

醍醐寺と聞いて思い浮かべるものは、なんと言っても桜。紅葉ももちろん絶景ですが、やはり「醍醐の花見」という言葉に象徴される、桜の季節の醍醐寺は、それこそ春の「醍醐味」といえます。

その「醍醐の花見」は慶長3(1597)年、秀吉によって大規模に行われた花見です。自身の死の前年だったことから、死への恐怖に抗うためとも、死を悟ったためともいわれています。

桜の花が一気に満開になったかと思うと、あっという間に美しく散っていく。日本人にとっては昔から、桜は美しい一方で「死」をはっきりと意識させてくれる存在だったのでしょう。

現代において花見といえば、満開の桜を見ながら飲めや歌えの宴会をすると思われがちですが、その原型を作ったのが秀吉の「醍醐の花見」とされています。主催者である秀吉自身による、奇抜なアイデアと周到な準備によって、人を楽しませる趣向に特化した花見となったわけです。

醍醐の”花見”は”茶会”だった

醍醐の花見は、秀吉と正室のおね、側室たちをもてなす茶室が8つも設けられました。

天正15(1587)年に秀吉によって開催されていた北野大茶の湯が、茶の湯を好む者であれば身分関係なく、誰でも茶屋を造って楽しむことができたのとは対照に、醍醐の花見での茶会は限られた人間しか参加ができませんでした。

秀吉の人たらしのイメージは強烈なものですが、そのような開放的な性格の秀吉も、この最晩年の「醍醐の花見」は大衆とは一線を画して開催しました。

秀吉はこの花見を、朝鮮出兵をはじめとする自身の抱える鬱々とした苦悩の日々の憂さ晴らしとするために催したともされており、ある意味で自分と家族、近しい者たちのためだけの特別な企画だったといえます。

 

 

美しく着飾った女性たち

この花見においては、女房たちの装束一人あたり、たとえば豪華な小袖と帯が三つずつ、それが1,300人分。女房たちはお色直しもしながら着飾り、そして美しさも競うことになったのでしょう。

驚くべきことに当日は、そのせっかくの花見の席に、息子秀頼や前田利家以外の男子は近寄れませんでした。三里(約12キロメートル)も離れた場所から遠巻きに見物するように秀吉に言われたといいます。彼らのため息が聞こえてくるようですね。

とはいえ女性を、男性の目からあえて遠ざけたところで、美しく着飾った姿によってワイワイ楽しませようというアイデアは、やはり秀吉らしいというべきか、女心をよく知っているなと感心させられますね。

ちなみにその大勢の女房たちの装束すべての仕立てを命ぜられたのは、薩摩の島津氏。いまでいうところの40億円ともいえる経費のしわ寄せは、結局薩摩の農民たちへの年貢の取り立てなどに反映されていくことになってしまうのですが・・・。

ふやせよ桜

もともと「醍醐の花見」以前から、秀吉は桜を愛でに何度も醍醐に通っていました。「花見」を思い立ってから、桜の木を数百本(700本とも)植えさせて、豪華な花見をするにふさわしい場所として手を加えていったといいます。

 

皆で花見をしよう、さてそれならば、桜をもっと植えよう!この秀吉の無邪気ともいえる大胆な発想は、彼に死期迫っている事実と重なったことにより、私たちに複雑な感慨深さをもたらします。

先述のとおり、この醍醐の花見は、秀吉が妻たちと子の秀頼と人生最後の楽しい時を豪勢に過ごす場でした。その晴れ晴れしい一日、秀吉の気持ちはいかばかりだったのでしょうか。

恋しくて
今日こそ深雪花ざかり
眺めに飽かじ
いくとせの春

秀吉がこの日詠んだ歌のひとつだと伝わっています。

満開の桜の花を雪に見立てると同時に、醍醐寺の山号を「行幸(みゆき)があった」ことにちなんで「みゆき山」と変えるのはどうだろうかという、秀吉の思いにより「深雪」との言葉が入っているのだそうです。

醍醐寺は実際に、その後「深雪山」の山号を持つようになりました。

秀吉の栄華の象徴でもありながら、晩年の憂いや翳りもよみとれる醍醐の花見。そして彼が家族とごく近しい人たちを楽しませるためだけに遊んだ花見は、一方で大名たちの静かな憤りが聞こえてくるような不穏さと、秀吉亡き後に待ちかまえていた動乱の予兆となるのです。