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2023年1月8日

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智積院障壁画からみる“個“の長谷川等伯

等伯が出身地の能登から京の都にやってきたのは、33歳のことだったそうです。それまでは絵仏師として活躍していましたが、仏画だけでなく絵師としての仕事を京に求めたといいます。

その頃、都では狩野永徳の狩野派が、時の権力者である信長や秀吉、さらに朝廷からの絵画の依頼を一手に引き受ける組織となっていました。もちろん等伯に、すぐに絵師としての大きな仕事があったわけではありませんでした。

新天地で新たに自分の力を試そうとするなら、過去を捨てて活動することを思い立つ人も多いでしょう。このときの等伯の心境は定かではありませんが、まずは自身ならではの強みであった「絵仏師」としてのスキルをチャンスに変えようとしたようです。

自身が帰依する日蓮宗である、本法寺に仕事のツテを得たとみられています。また、信長の菩提寺となっている大徳寺総見院の障壁画を描いた際には、茶人としても知られる堺の商人たちのツテだったのではという見方もあります。

このように京での活動を続けていた等伯は、53歳のとき、秀吉からいまの智積院に障壁画として残されている絵を依頼されます。それは、秀吉の子であり3歳で亡くなった鶴松の三回忌法要が行われる部屋の障壁画でした。

等伯は33歳から53歳まで、実に20年を京で過ごしていましたが、都での狩野派一強体制に入り込むことはできずに、たとえば御所の障壁画を描く仕事は、その狩野派の強い反対にあったこともあります。

狩野派といえば、室町・戦国・安土桃山、そして江戸と続いた画家集団で、先祖から伝わる絵の手法を忠実に継承する画風です。永徳は安土城、大阪城、聚楽第の障壁も描きましたが、前述の秀吉からの障壁画の依頼の時点で、彼は死去しており、狩野派は足元が揺らいでいました。鶴丸の法要のための障壁画も、永徳の死がなければ狩野派が請け負うはずだったとされています。

自分を妨害する人物がいなくなったことは等伯にとって大きなチャンスとなり、結果として後世に、いま智積院に残る「楓図」をはじめとする傑作障壁画群を残すこととなりました。

等伯は狩野派とは異なり、組織的に弟子を持つことはなかったといいます。そのため、決まりきった画風を持たず、等伯の芸術性をそのまま絵に表すことができました。そもそも、もとは絵仏師であった彼が京に出てきて、動植物をも描いていたことからも、その自由度や幅の広さが分かります。

等伯について述べられた言葉に、このようなものがあります。

「さまで利発なる老人とも、見えざねども、その道に心をつくし修行せし者の云ふ事には、よくきこえたる事あり」(『結縄集』)

「老年二及ンデ筆力衰エズ、麁悪ノ瑕悪有リと雖ドモ又豪気の風体有リ。時輩之二及ブ者ナシ」(『本朝画史』)

これらからイメージされるのは、等伯の絵描きとしての矜持と、権力や組織とは距離を置いた生き方です。周りには利発な老人とは見えなくても、粗末で質が悪いを言われても、絵の腕前だけは確実に認められていたというのは、画家にとっては何よりの賞賛であるはずです

いま智積院にあるこれらの障壁画のうち、とくに「楓図」「松に黄萄葵図」にみられる”楓以外””松以外”の植物描写は、狩野派にはない、等伯ならではの独創的な描写であると言われています。

メインとなる「楓」や「松」こそ、狩野派の影響を受けた(つまりよく似た)描かれ方をしていますが、圧倒的な違いはそれらの木の根元に描かれた草花です。「抒情的」と表現される、まるで等伯の草花に寄せる感慨深さや切なさ以上の感情が表れた描写表現が、等伯の強烈な”尖り”となっています。

その背景には、等伯の持つ狩野派と異なる独自性だけでなく、鶴松の法要のための障壁画の制作にあたり、等伯の息子久蔵の史が時期的に重なってしまったことも要因だと言われています。

絵の依頼主である秀吉は、当然鶴松を想っていたでしょう。そしてその気持ちは当然第三者も理解していたと思われますが、愛息を亡くすという境遇を本当に「共感」できたのは当時の等伯をおいてほかになかったでしょう。

久蔵は等伯とともに、この障壁画の仕事を受けて制作にとりかかっていました。うち「桜図」は久蔵によるもので、彼は将来を嘱望されながらも、この絵の完成直後に急死してしまいました。鶴松の法要の2か月前だったといいます。それでも等伯はこの仕事を最後まで全うしました。

仮に狩野派がこの障壁画を請け負っていた場合、等伯のような「個人のできごと、感情の揺らぎ」は絵画に反映されることはなかったでしょう。それほど狩野派は組織的かつ画一的な画風であり、対する等伯は”個”の絵画でした。

つきつめてみると、等伯のこれらの逸話からは”個”を巧みにバランスよく、それでいてまっすぐに仕事にも反映させる度量が「傑作」を生みだすのだということに気づかされます。

現代を生きるわたしたちや、これからの時代の社会を担う若者のなかには、仕事とプライベートの線引きを明確にすることに意義を見出したがることが多いです。とはいっても、完全に「仕事は仕事」」と割り切って組織の中での役割に徹している”だけ”の人間には、思い入れのある大切な依頼であればあるほど、気持ちのすれ違いが起きることもあるでしょう。

人間力、人間性といえばそこまでですが、やはり”個”の重みは仕事を通してであっても、周囲への影響力、感動を誘う力に昇華するものだと思います。等伯の障壁画群は、いま智積院で私たちに等伯の絵画スキル以上に、等伯自身を語ってくれています。