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2023年2月6日

塾長ブログ, 未分類

妙顕寺〜法華宗と花開く上京の町衆文化

妙顕寺は元亨元(1321)年に日蓮の六老僧の一人である日像によって建立された、日蓮宗のお寺です。日蓮は入滅の際、日像に京の都での日蓮宗の布教を託しました。

日蓮宗はその後、裕福な造酒屋である柳屋仲興が法華宗に帰依するなどして、だんだんと京の都の有力な町衆に広がっていきました。

比叡山延暦寺からの圧力を受けつつも、応仁の乱などの混乱を経て、武力を持つようになり、さらには町衆だけでなく近衛、九条、鷹司などといった有力貴族の中にも支援者が現れるようになり、京での影響力を得ていきます。

町衆は商工業者の自治共同グループですが、寛正元(1460)年には彼らの大半が日蓮宗に帰依したといいます。

日蓮宗が現世主義で現世利益を求めた教義であることと、日蓮が、末法の乱れた世を救うためにさまざまな過酷な法難を乗り越えた生涯を送ったことなどを、営利のため困難に立ち向かって力を尽くす日々を送る町衆たちの心情を惹きつけたのだと言われています。

一時は上京、下京を合わせて60もの日蓮宗寺院が建立されましたが、天文5(1536)年の天文法華の乱によって、下京が焼き払われたことによって上京での法華宗の持つ役割が多くなりました。

技術力と政治力とを兼ね備える町衆は、権力者からの需要を独占するようになり、それに伴い、文化の大きな担い手となります。

例えば本阿弥光悦で知られる本阿弥家、絵師である狩野家や長谷川等伯、茶碗師の樂家など、日本文化を代表する人々が、日蓮宗によって、町衆同士のつながりを持っていました。

そのうちの一つである呉服の雁金屋は、江戸時代の絵師である尾形光琳の生家です。狩野家の流れを汲みつつも、流派にとらわれず自由な画風を持った光琳は、絵師としての名声と富を得ます。

いまでは「琳派」としてその芸術は私たちに感動を与えてくれています。

妙顕寺には光琳が手がけた庭園があったそうです。天明の大火(1788年)の後に彼の作品を模した庭が造られました。光琳の百回忌に酒井抱一が奉納した「観世音図」ゆかりの「抱一曲水の庭」では、花々や水琴窟を楽しめます。

このように妙顕寺は、長い年月で苦難を乗り越えながら生み出され、受け継がれてきた人々の営みを、ともすれば単なる「観光スポット」「伝統文化」とひとくくりの言葉で捉えがちになる私たちに、歴史的背景や文化的教養の学びの入り口へと誘ってくれます。

目の前にある建造物、芸術の数々の持つ人々の思いや願いは、造られた当時はもちろん、時代が下ったいまとなっても、形は変わることこそあれ、その強さや大きさは変わらずに受け継がれていくことでしょう。