講師ブログ

2023年2月6日

塾長ブログ

千本釈迦堂〜おかめの福顔に秘められた思い

「千本釈迦堂」は通名で、正式には大報恩寺という名称です。吉田兼好の『徒然草』第二百二十八段には「せんぼんの釈迦念仏は、文永の比、如輪上人、これを始められけり」とあります。

釈迦念仏は釈迦の涅槃に因んで「南無釈迦牟尼仏」を唱えて菩提を祈願する念仏で、二月九日から二月十五日まで行われます。「文永」とは1264年から1275年の、亀山天皇の時代です。また、「如輪上人」は浄土宗の僧で大報恩寺の二世です。

 

兼好がこれをわざわざ書き残した意図はわかっていませんが、個人的な覚書の一つではないかと言われています。

さて、この千本釈迦堂には大きな「おかめ塚」があります。彼女は「阿亀」といい、とある大工の妻でした。彼女のお顔は、私たちも日常でよく目にしています。下ぶくれの色白でほっぺが赤く、目を細めてにっこり微笑む、あのお顔です。福のお面といえば、すぐに思い浮かぶ方も多いでしょう。

本堂建立にあたって棟梁に命じられたのは長井飛騨守高次という大工で、超一流の大工の棟梁と言われていました。

本堂は正面の桁行五間、側面の梁行六間、さらに正面には一間の向拝という、鎌倉時代初期においては非常に大きなものです。柱には当然巨木が必要で、その材木は紆余曲折がありながらの調達となりました。

しかし作業において、高次は大事な4本の柱のうちの一本の寸法を誤って短く切り落としてしまいました。代わりの材木が見つからないまま工事は頓挫し、どんどん工期が迫って来ます。

そのピンチを救ったのが阿亀でした。

彼女は何日も願掛けをするうちに、厨子の中に斗栱(ときょう)を膝に抱えた釈迦の姿を見たといいます。斗栱とは、建築の手法の一つで、中国の木造建築で柱の上に置かれて、軒桁を支える部位のことです。

阿亀は、短く切り落としてしまった一本の柱と同じ長さにあえて他の3本の木材を切り揃え、柱の上部に斗栱を取り付けるように、高次に助言をしたのでした。これによって本堂の建築の遅れを取り戻せたといいます。

こうして無事に上棟の日を迎えた高次ですが、阿亀はこの高次の成功が、建築について明るいわけではない自分の助言に救われたからだと、世間に知られることによって台無しになってしまうことを恐れ、夫の名誉を守らんとして、上棟式の前日に自害していました。

境内の「おかめ塚」は彼女の供養塔です。

いまでも建築の新築や改築工事のときに上棟式に「おかめ」が飾られる風習が残るのは、阿亀の女徳が転じたものです。縁結びや夫婦円満などのご利益があるといわれています。

また本堂が、応仁の乱の戦火から逃れて無事だったことと相まって、土木や建築業者からの信仰を集めています。

災い転じて福となす。阿亀の物語には悲しみと感慨がありますが、阿亀が自分の大切な夫であり、超一流の腕前を持つ大工の棟梁である高次を思っていたその気持ちにこそ、「おかめ信仰」の本当の意義が見出せるのかもしれません。

妻ではあっても夫との立場の違いをわきまえ、夫の専門性に口出しする結果となったことや、夫の名声の一部に自分が含まれてしまうことを良しとしない。

お面や商品キャラクターのモチーフとして、よく目にする阿亀ですが、これから自分の人生をおそらく誇り高く幕引きしたであろう彼女に思いを馳せて、ふっくらにっこりと笑うお顔を見つめてみるのはいかがでしょうか。