塾長ブログカテゴリー記事の一覧です

2022年1月30日

コミュニケーション, 塾長ブログ

安宅の関・安宅住吉神社~「判官びいき」と”しきたりと礼儀作法”のコミュニケーション

歌舞伎の『勧進帳』や能《安宅》でよく知られる、源義経一行の逃避行のひとつの場面、安宅の関での富樫との攻防。義経を守らんと機転を利かせ、ないはずの勧進帳を高らかに読み上げる武蔵坊弁慶の姿と、義経と弁慶との主従の絆の深さが中心に描かれ、人々の感動を誘います。

もととなったストーリーは『義経記』という南北朝時代から室町時代に成立したとされる物語で、作者は不明です。しかしその前にすでに人々に知られていた『平家物語』に、少なからず影響を受けて書かれたものと言われています。

また、「判官」と呼ばれていた義経が由来となった「判官びいき」という言葉は、辞典によると「悲劇的英雄、判官源義経に同情する気持ち。転じて、弱者・敗者に同情し声援する感情をいう」とあります。

いまの若い皆さんのなかには、身近にこの言葉を聞いたり使ったりすることはなくても、「弱者・敗者に同情し声援する感情」には誰しも心当たりがあると思います。

さて、源頼朝の異母弟である義経が、現代まで受け継がれる悲劇的英雄としてイメージされるようになるまでには、いくつかの要因が重なり合っています。物語の舞台となった安宅の関と安宅神社の写真とともに楽しんでいただければと思います。

『平家物語』は目で読む≠耳で聞きイメージする

 

「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」と有名な冒頭で始まり、平家一門の隆盛と凋落を語る『平家物語』。はじめから文字で書かれたものではなく、琵琶法師という盲目の琵琶弾きによる弾き語りの作品です。

あぁ言われてみれば、と思った方もいるかもしれません。中学生のころ、学校の国語の授業で、「祇園精舎の鐘の音」からのフレーズの暗唱テストがあった人も多いでしょう。「なんでこんなの覚えなくちゃいけないんだー!」と文句を言いつつ、いざ暗唱できるようになると、言葉の七五調のリズムや対句の気持ちよさが楽しく感じられるものです。

そう、この物語は耳で聞き、平清盛をはじめとする平家一門の活躍や悲しみの場面を聴き手がイメージしてこそ成立します。聴き手側それぞれがイメージし、それに感情移入することができるのは、いまのラジオドラマの良さと重なる部分がありますね。一の谷の戦いの鵯越の逆落とし、壇ノ浦の戦いで義経が見せた八艘飛び。「戦の天才」と評価される義経がドラマチックに描かれます。

当時、目で文字として読む書物であれば、広く庶民に『平家物語』も義経も知られることがなかったでしょう。聴く物語であったのが、義経ファンを作り、判官びいきという言葉を根付かせたと言えます。

源氏の御曹司でありながら「平家側」で育った義経の生い立ち

義経の父は源氏の棟梁である源義朝で、母は庶民の娘であった義朝の愛妾常盤です。保元の乱で義朝が京から敗走したとき、義経はまだ物心のつかない赤ちゃんでした。常盤は源氏方の負け戦に窮地に追い込まれ、平清盛のもとに、義経を含む三人の男子を連れて出頭します。

美しい常盤は清盛の妾となって女子をもうけたのち、公家の一条長成に嫁ぐことになるのですが、義経はその流れの中で、父から源氏の男子としてのしきたりや振る舞いを学ぶこともなく、嫡子の頼朝と交流することもなく、うまく源氏の礼儀作法も身につけることができなかったとされています。

こうして義経は、11歳で鞍馬寺に預けられるまでは、源氏どころか平家の膝元でさまざまな人間模様を見聞きする結果となりました。数年後、僧にはなりたくないと鞍馬寺を出て、奥州平泉の藤原秀衡を頼り、頼朝と対立することになっていきます。

コミュニケーション不良は共通認識が「共通」でなくなったときに起こる

頼朝が、母が違うとはいえ弟である義経に不信を持ったことについて、なんとひどい、戦上手な義経なのに、兄に拒絶されて自害に追い込まれるなんてかわいそうだ、という見方もあります。

ただ、さまざまな歴史家が指摘していますが、とくに源平の戦いの中で、義経が兄を軽んじる行動を重ねてしまったことは確かです。義経は戦の現場で強さを発揮しましたが、離れた地にいる頼朝に対して、しっかりとコミュニケーションを取ろうとせず、頼朝からの命令に従わないこともありました。

コミュニケーション不良というのは、つきつめると、大事なことを報告・連絡・相談しないときと、「こんなことは言わなくても分かるだろう」といって、話す以前の共通認識が食い違ったときに起こります。

こう考えてみると、コミュニケーションにおいて重要なのは、若い人たちがこだわりがちな”正しい言葉遣い”というわけではないことに気づきます。「相手がなぜこのように自分に言ってくるのだろうか」と思いをめぐらせてみたり、「相手が求める自分からの行動はなんだろうか」と相手に確認してみると、余計な緊張や萎縮なしにスムーズに意思疎通ができるでしょう。

言葉だけでは解決しない、各自身につけた行動である「しきたりや礼儀作法」も、相手との関係を良好にも不良にもするものです。義経は、幼い頃に育った環境や事情で、源氏の男子が当然知っているべき「当たり前のしきたりや礼儀作法」を知ることがありませんでした。一方頼朝も、義経にそれを教え諭す機会と余裕もないままに、対立を深めてしまいました。

現代を生きる私たちもみな、育った環境や「こうあるべき」という感覚は、人それぞれ違います。人生の年代のステージにおいて、その環境と感覚が違う人同士が出会い、ともに過ごして切磋琢磨して、しかるべきタイミングで別れていきます。

もちろん「判官びいき」は、義経に端を発し、すばらしい物語によって語り継がれてきた、大切な日本人の心を示すものです。でもだからこそ、歴史上の人物としての義経が実際にどのように生きたのかを知り、さまざまな側面からものを考える視点を持ってみると、よりその「心」が分かるてしょう。

 

2020年11月2日

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廬山寺〜紫式部の「眼」が見た人々と自己

京都御所の東側のそばにある廬山寺は、紫式部が『源氏物語』を執筆した場所として知られています。

紫式部は藤原為信を父に持ち、「学者肌の素朴で地道な生活」を送る家風の中で育ったといいます。また、幼い頃に母や姉を亡くしたこともあって、内省的な性格であったそうです。

また、当時漢籍は男性が身につけるべき教養でしたが、父為信は、式部の弟にそれを教えていたものの、そばで聞いていた式部のほうが理解が早かったので、「娘でなく男であったなら」と残念がったという逸話が残っています。

さて、誰もがよく知る光源氏が主人公のあの『源氏物語』は、まさに式部の代名詞です。「紫」式部と呼ばれるようになったのも、この物語の登場人物「若紫」に因んでいます。

『源氏物語』をめぐるエピソードは興味深いものが多いです。たとえば、実は光源氏のモデルとされる人物は6人ほどいます。

光源氏は、いわば彼らの魅力が結集したキャラクターなのです。なるほど、源氏が当時の男女誰もが憧れるスーパースターであるのもうなずけますね。

式部の「人々を観る眼」は非常に写実的かつ俗っぽく、くすっと笑えてしまうほどでです。『紫式部日記』には、ともに一条天皇の中宮彰子にお仕えする女房たちや、清少納言について、式部がどう捉えていたのかがよく分かる記述があります。

少しご紹介しましょう。

大納言の君は、いとささやかに、小さしといふべきかたなる人の、白ううつくしげに、つぶつぶと肥えたるが、うはべえはいとそびやかに、髪、丈に三寸ばかりあまりたる裾つき、かんざしなどぞ、すべて似るものなく、こまかにうつくしき。顔もいとらうらうしく、もてなしなど、らうたげになよびかなり。

「大納言の君は、とても小柄で、小さいといったほうがいい人で、色は白くかわいく、つぶらに肥えている人が、見た目にはとても体つきはすらっとしていて、髪は背丈に三寸(約9センチ)ほど余っている裾のようすや髪の生えぐあいなど、どれも類のないほど、すみずみまで行き届いて美しい。顔もとてもかわいらしくきれいで、振る舞いなども可憐で上品で穏やかだ。」

また、清少納言についてもこのように。少々長いですが、興味深いので引用します。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし。行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。

「清少納言はまさに得意顔でとても偉そうにしている人。あれほどかしこぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ると、まだとても足りない点が多いです。このように、人よりも特別でありたいと思ってそうしたがる人は、きっと見劣りがし、ゆくゆくは悪くなっていくだけですから、いつも風流ぶるようになった人は、とても寂しくて退屈なときでも、しみじみ感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないうちに、自然とそうであってはならない不誠実な態度にもなるのでしょう。その不誠実になった人の行く末は、どうしてようことがありましょうか。いえ、きっとよくないはずです。」

紫式部がここまで辛辣であるのには、清少納言と同様に自身も漢籍の素養があったことや、内省的な自分と正反対のような清少納言の振る舞いに、大きく心が乱されたことが要因ではないかと思います。

ある特定の人に心乱され、嫌いまたは憎いという思いを抱くとき、その相手に自己を投影させていることがよくあるという話を聞いたことがあります。清少納言の人物像は、もちろん紫式部の書いたこの一節でのみ決まるものではありません。

むしろ、一貫して中宮定子と藤原道隆らの凋落を感じさせることなく、自身の「さかしだち」のエピソード以上に、定子の優しさと魅力をつづった『枕草子』からは、何一つ敬愛する女主人に寄せ来る現実の暗さを感じさせまいと覚悟に満ちている清少納言の表情が浮かぶようです。

紫式部は以上のように、周囲の女房たちについてあれこれと述べる一方で、理想的な「人(=女性)」の心持ちと振る舞いについて残しています。

様よう、すべて人はおいらかに、すこし心おきてのどかに、おちゐぬるをもととしてこそ、ゆゑもよしも、をかしく心やすけれ。

「すべて女というものは、見苦しくなく穏やかで、少し心持ちもゆったりして、落ち着いていることをまさに基本として、品位も風情も趣深く安心です」

現代においては、「人」は女性に限らず、男性も含めたすべての人にあてはまる理想像といえるでしょう。とはいえ、式部の言葉は、自分自身に向けた戒めにも似たもののように感じられます。

『紫式部日記』には、多くの場合「『源氏物語』の作者」とだけとらえられがちな彼女の、内面の葛藤や思いがこまかくつづられています。

その自身の複雑な思いに翻弄されまいと、必死に言葉を紡いだ彼女の憂いに満ちた表情は、清少納言が『枕草子』で見せる覚悟の顔つきにも似た、生きた人々の直面した苦悩や思いを伝えてくれます。

2020年10月24日

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銀閣寺~創造と破壊そして再建の歴史の中で

銀閣寺は正しくは「慈照寺」といい、「銀閣寺」は通称です。室町幕府の8代将軍足利義政が、執念ともいえる情熱を注いで造営した山荘です。とはいえ、義政の死後すぐに荒廃してしまい、現在に伝わる姿は、江戸時代に再建された当時からのものです。

別荘造営は長く義政の夢であり、銀閣寺の造営に着手する1482年以前は、東山の恵雲院(いまの南禅寺のあるあたり)に別荘を建てることを計画し、準備していたといいます。それが、応仁の乱によって中断したのち、再び造営を始めます。

銀閣寺の造営にあたっては、用地と用材をめぐる義政の横暴が目立ったといいます。

この土地は比叡山延暦寺の末寺であった、浄土寺があった場所でした。義政はよほどこの土地が気に入ったようで、無断でこの土地を没収して造営をすすめようとしたそうです。墓の並ぶ霊地であった浄土寺をこのように扱うことに、「仏罰に値するものである」と延暦寺が抗議をしましたが、結局覆ることはありませんでした。

応仁の乱後の混乱によって、造営のための財力には窮したといいます。義政は、課税によっても賄えないこの費用を、寺社・公家・豪族・民衆すべてに負担を強いて集め、どんどん費やしていきました。

良く言えば国を挙げて、悪く言えば多くの犠牲の上に造られた、義政の理想の別荘だといえます。

庭園に使われた檜や蓮、松、梅は、都または都周辺の寺から運ばせました。多くて二千人もの人夫が無償で駆り出されたそうです。また、石は室町第(花の御所)跡、仙洞御所跡、金閣寺に無償で運ばせました。

それぞれの寺社、旧跡の景観は、こうして人の手が加わったことで人工的なものに大きく変わったそうです。

義政の銀閣寺造営は、終始このように進められたことで、多くの人の反感を買いました。義政が病気によって完成を待たずに亡くなってしまったのはよく知られていますが、銀閣寺はその翌年の段階にはすでに荒廃しており、破壊されたり材木が持ち去られ始めたりしていました。

義政の死後80年で、完全に破壊され荒廃していたといいます。

いま私たちが見ているこの銀閣寺の姿は、参道や池の場所が同じであること、東求堂(とうぐどう)が存在してたことのほかには、義政が建造した当初とはまったく異なります。

参道や銀沙灘(ぎんしゃだん)、向月台などは、一説には同じ時代の「西欧整形式庭園」の手法が応用されてるのだとされています。

一方で、東求堂は「茶室の起源とも、近代和風建築の原型ともなった」といわれ、東山文化を代表する建築物となっています。

いまの歴史学においては、北山文化と室町文化をひとつとみなす「室町文化」と称するそうですが、この室町文化は戦国期を経て、京の都のみならず地方に伝播していきました。

歴史をみるときには、その時点でのその影響や評価だけではなく、その後に与えた影響をすべてを鑑みて判断すべきだという意見もあります。

銀閣寺は、造営のいきさつは義政に横暴のエピソードが目立つとしてもやはり、現代の「日本文化」「伝統文化」を形作った象徴的存在であることに変わりはありません。

なお、義政の長男、9代将軍義尚は若くして他界しますが、その義尚の菩提を弔うために、東求堂から望む山の面に「大」の字を掘って新盆に火を灯して、精霊を送ったそうです。これがいまの「大文字の送り火」につながっています。

銀閣寺の美しい庭園を眺めながら、現代に続く歴史の大きなうねりに思いをはせてみるのも、ひとつの愉しみ方です。

2020年8月22日

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石清水八幡宮~まつわる先達から”ひらめき”と”努力”を学ぶ

京都府八幡市、男山(京都盆地の南西)に位置する石清水八幡宮は、大分県宇佐市にある八幡宮総本社、宇佐神宮八幡宮総本社から勧請されました。京の都の裏鬼門にあたる場所にあり、鬼門の方角にある比叡山延暦寺とともに、都の守護を役目として造営され、人々の信仰を集めています。

幕末までは、神仏習合により「石清水八幡宮護国寺」と称されて僧侶が神に仕えており、男山には「男山四十八坊」と呼ばれる小さな寺の数多くあったそうです。

『徒然草』の第五十二段「仁和寺にある法師」において、「極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て、帰りにけり」と、本殿を参拝せずに帰ってしまったというエピソードがありますが、この「極楽寺」は当時、神仏習合によってお寺があったということのあらわれなのです。

石清水八幡宮は平成28年に本殿や楼門などが国宝に指定されたほか、国指定重要文化財や京都指定文化財などのみどころにもあふれています。

それとは別にご紹介したいのが、「竹」です。白熱電球を発明したエジソンが、”日本からのお土産”であった扇子の骨を、電球のフィラメントに使ったところ、連続点灯が200時間にもなる、長持ちする電球を作ることができました。(それまでは連続して45時間ほどしか点灯できず、実用化が難しかったのです)

その後エジソンは、世界中に存在する竹を集めようと調査員を派遣します。

日本にやってきた調査員は、当時の首相であった伊藤博文や、外務大臣の山県有朋に面会する中で京都の竹の情報を知ります。そして、京都では府知事の槙村正直に「嵯峨野か八幡がよい」と紹介されて、石清水八幡宮周辺の竹を集めたのだそうです。

この竹を用い、連続して1200時間も点灯する電球が生み出されました。

エジソンは多くの日本人との交流がありました。

技術を学びに自分の元を訪れる日本人たちには、「外国から輸入すればいいと考えていてはいけない。自分の国でも作ろうという気概がなければその国は滅ぶ」と言っていたそうです。

ちなみに、このエジソンの影響を受けた藤岡市助という人は、帰国してから日本製の白熱電球の製造に取り組み、炭素電球を完成させました。

エジソンといえば、この名言を思い出す人も多いことと思います。

天才とは1%のひらめきと、99%の努力である

「だから努力が肝心だ、努力すべきだ」と解釈されてしまいがちな言葉ですが、実際にはエジソンは「1%のひらめきのために99%の努力をしているのだ」という意図を示したのだそうです。

つまり、たとえ努力を重ねていてもひらめきがなければその努力さえも無駄になる、と訴えているのです。

先述の「自分の国でも作ろうという気概」と通じるものがありますね。

また、私はエジソンの「努力」は発明のための実験とその失敗そのものをさすと思っていましたが、どうもそうではないらしい。

彼は普段から、膨大かつ幅広い分野の本を読み、その中で「思いついたこと」(=ひらめき)をその都度書き留め、それを実験していたといいます。

ただもって数多くの実験を繰り返し、成功するまでがんばっているだけではない。

努力とひらめきは、エジソンのなかでは対のものであり、どちらが欠けても不十分だったといえるでしょう。

「努力すれば報われる」。たしかにそのとおりですが、ただなにかを繰り返すだけ、頭に叩き込むだけの努力は、「作業」になってしまいます。本当の努力とは「取り組むたびに何かに気づく」ことです。

この”気づき”は、実際にまとまった時間と量を取り組んでみないともたらされません。(ちなみに、エジソンは一日24時間体制でずっと休むことなく動きつづけたといいます。)

ということは、私たちが勉強でも仕事のスキルを身につける必要にせまられたときに、少しやってみただけで失敗したことを大げさにとらえて落ち込んだり、「もうやめちゃえ」「自分には向いていない、苦手だ」とあきらめてしまうのは、時期尚早です。

それよりも、取り組むたびに、前よりもできるようになったことや、まだうまくいかないところを自分で感じ取り、何が必要なのかを確認することに重きをおくのがいいでしょう。

エジソンには発明品だけでなく、彼自身の驚くべきエピソードもたくさんあります。偉人の人生から学ぶべきことを見つけ出すのは、本当に楽しいものです。

そして、その「自分にとって学ぶべきこと」も、自分の置かれた環境や考え方によって、どんどんブラッシュアップされていきます。それが自然とひらめきや、なにかを生み出すアイデアにつながっていくこともあります。

ここ石清水八幡宮は、私にとっては、子どものころから家族親戚と初詣を楽しむ場所でした。大学時代には八幡信仰を感じる場所となり、社会人となってからは「アイデアやひらめきの重要性を知るきっかけの場所」となりました。

「少しのことにも先達はあらまほしきものなり」とは「仁和寺にある法師」ラストの吉田兼好の言葉ですが、多くの「先達」たちの足跡を見てきた寺社仏閣に、さまざまに興味を抱いてみるのはいかがでしょうか。

2020年7月3日

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城南宮~春の七草と源氏物語「若菜上」

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ

いわずと知れた「春の七草」です。

ここ城南宮では、毎年2月11日、つまり旧暦の1月7日に近くを「城南宮七草粥の日」として、参拝する人々は七草粥をいただくことができます。

春の七草をすらすらと言える人も、なかなか実際に七草すべてを目にする機会は多くないのではないでしょうか。

神前に供えられた七草は、どれも青々として瑞々しさにあふれています。一年の無病息災、延命長寿を願ってこれらの若菜を口にするという風習も、なるほどとうなずけます。

さて、この七草の風習は、『源氏物語』の若菜上の巻にも登場します。

源氏が四十歳を迎えた春、源氏の養女であり、髭黒の大将の正妻となった玉鬘が、源氏に若菜を贈ります。

正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜まゐりたまふ。かねて気色も漏しらたまはで、いといたく忍びて思しまうけたりければ、にはかにて、え諫め返しきこえたまはず。忍びたれど、さばかりの御勢なれば、渡りたまふ儀式など、いと響きことなり。

正月二十三日、その日は子の日なので、左大将殿の北の方(玉鬘)は若菜を差し上げなさる。前もってそのようなそぶりもお見せにならないで、たいそう内密にご準備なさっていたので、突然のことで、それをとがめてご辞退することもおできになれない。内々ではあるが、あれほどのご威勢なので、ご訪問の儀式などは、とても盛大なものだった。

「若菜まゐりたまふ」には「若菜をまゐりたまふ」と格助詞「を」が省略されていますね。さらに、「まゐり」は動詞「参る」の連用形。「参る」は「差し上げる」という意味です。

このように、正月の最初の子の日には、小松を引いたり若菜を摘んだりして、長寿を祈る風習がありました。

若菜とは、食用や薬用になる春の草のことです。いわゆる七草だけでなく、あざみ、さち、せり、わらび、なずな、あおい、よもぎ、たで、すいかん、しば、すずななどの新菜で、食べると若返るとされていました。

このときの源氏のようすは、このように書かれています。

いと若くきよらにて、かく御賀などいふことは、ひが数へにやとおぼゆるさまの、なまめかしく人の親げなくおはします・・・

(源氏は)とても若く気品があって美しく、このように四十の御賀なとということは、年の数え間違いではないかと思われるお姿で、若々しく、子どもがいる親ようには見えないほどでいらっしゃる・・・

さて、受験古文で「重要単語」とされる言葉がいくつかあることに、お気づきでしょうか。

清らなり、ひが〜、覚ゆ、なまめかし、おはします。この機会にぜひ辞書を引いてみてください。現代語とのちがいや、「予想してた意味とはこう違うんだ!」という楽しい発見が、きっとできるのではないかと思います。

この城南宮の「楽水苑」には、源氏物語に登場する花が数多く植えられています。

それというのも、城南宮のあたりは、平安時代後期には院政の拠点である鳥羽離宮が建てられました。白河上皇が光源氏の、四季の庭を備えた絢爛豪華な邸「六条院」に触発されて城南宮の造園を行ったことに、ちなんでいるのだそうです。

『源氏物語』は、多くの人にとって、高校生になって初めて本格的に学ぶものであると思います。高校生になると、古文はすっかり「暗記科目」とほぼ同じ状態になりがちです。

たしかに、作品知識、ことば、文法、和歌、そしていわゆる古文常識・・・。知っておかなければいけないことは山ほどあります。もちろん、源氏物語を学ぶときも同じです。

うぅー覚えることだらけで嫌になっちゃいそう!
イメージが湧かなくてつまらない!

そんなときこそ、ぜひこの城南宮を訪れてみていただきたいと思います。

私も若かりし頃、この神苑を歩きながら「あ、国語便覧で見た遣水ってこれのことか!」と感動したものです。

さらに、「源氏物語の巻名を『桐壺』から『夢の浮橋』まで全部言える」と自慢してくる友達に負けじと、「せーの」で「桐壺」から須磨」あたりまで頑張ってついていったこともよく覚えています。

人は、とくに子どものころや若いころに体験したこと、感動したことは、そう簡単に忘れ去ることができません。皆さんの心のどこかにひっそりとずっと残っていて、ここぞというときにパァっと蘇ってきます。

当然、七草粥の日に若菜を目にすることも、それを味わうことも、きっと皆さんの貴重な体験の一つになりますよ。

2020年5月29日

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無鄰菴・山県有朋の“権力”と評価

山県有朋は、その生涯を通じて数多くの和歌を残しています。国学を学び和歌にしたしんだ、父の影響をうけたことがきっかけだそうです。
ほかにも漢詩・仕舞・書、さらに作庭という、幅広い趣味を持っていました。この無鄰菴の庭園も、有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛が手がけた「近代庭園の傑作」と称されるほどのものです。

山県は幕末から明治にかけ、近代日本の政治と軍事に関わった人物ですが、今回、山県について調べていくうちに、彼が「嫌われ者」とみなされていることを知りました。

その根拠のひとつに、同じ国葬であった大隈重信の葬儀は一般の弔問客にあふれていたにもかかわらず、山県有朋のほうは政治家、家族、同郷の者ばかりで閑散としていた、という事実があります。よって、国民から慕われていなかったのだと。

実際、山県の国葬に反対した意見として「山県公は、この民衆政治・政党の発達を阻害したることで世すでに定評がある。いったい山県公はつねに自己の周囲をとりまく人々の言を聞いてこれを信条とし、一般国論・民意を度外して常に耳をおおうた人である」とあります。

自分の浪人時代、ある予備校の先生のテキストのコラムで「人は死んだときに、自分の人生の本当の価値がわかる。いちど自分の葬儀に、どんな人が来て、どんな風に自分を惜しんでもらいたいか考えてみると、今日の過ごし方が自ずと決まる」というような内容を読んだことがあります。

その言葉と相まって、葬儀が閑散としていたという山県有朋は、やはり大衆的ではない人物だったのではと思わせます。

ならば、彼はなにを目指し生きていたのか。

この無鄰菴で庭を歩きながら考えました。もちろんきれいな庭園に茶室、無鄰菴会議が開かれた洋館、そして呈茶(抹茶と和菓子)・・・いま目の前に広がるそれらのどれもが、心に響くものばかりです。

それでもやはり私は、この無鄰菴の主であった山県がどのような人物であったかを知ることに、強い興味を覚えました。

今回、いろいろと調べるなかでとくに印象的だったのは、山県の周りの人物からの、あまりに率直な評価です。まるでどこか、襖ごしに大盛り上がりに聞こえてくる陰口が、じつは自分の知り合いに対しての内容で、決してそのままを肯定したいとは思わないのだけれども、かといって否定できるくらいに外れた悪口というわけではなさそうで、とにかく非常に決まりが悪い。もちらん私は、山県となにかの繋がりがあるわけでもなんでもないのですが、無鄰菴の静けさと大きさと美しさが、その主であった人物と大きくかけ離れたイメージとなり、混乱に近い感覚に陥りました。

一部をご紹介するとこのようなものです。

吉田松陰は、入江文蔵にあてた手紙に、「大見識・大才気の人を待ちて、郡材始めて之が用をなす」と書きました。この手紙のなかで松蔭は、松下村塾の門下生たちの名を挙げています。山県についても、「大見識・大才気」の人物でなく「郡材」の一人であるという内容が読み取れます。

明治天皇は、山県が満州軍総司令官を希望した際、「山県元帥は不適任とは思わないが、あまりにも細かく、且つ鋭い指導をするので軍司令官たちが歓迎しないようだ」と述べられたようです。また、「短慮にして怒り易い」とも。

さらには、「大正天皇は、山県を人間的に嫌っておられたようで彼が参内したときは片っぱしから回りにあるものを下賜して追っぱらおうとされたという」。そして「民衆にとって山県は新らしい時代を作り上げるために邪魔者以外ではなかった」と見方が定着しているようです。「局部に拘泥して大局を達観することができなかったから、総司令官としては適任でなく、むしろ慎重で些細な事柄も見おとさないという点から参謀もしくは副官として適切であった」という評価もあります。

政治記者であった鵜崎鷺城は、「山県有朋の権力は陸軍大臣より重く、参謀総長より大なり。政府と雖も、彼の命に抗する能はず、伊藤の他界するや、軍人殊に山県閥の豪横・驕専、月に日に加わり、今や武断政治の弊その極に違す」と述べています。「山県は股肱腹心の者を自分の周囲におき、これを団結させて自家の勢力の扶植をはかることは、彼が銭財をつむ欲心がもっとも深いのと同じである。山県は客に接するときは必ず羽織・袴をつけ、客が礼服をつけないとその無礼を怒って再び面会しないというほど謹厳であるが、表裏は頗る矛盾している」と、細かい行動についても残しています。

では、ここで山県の自己評価もみてみます。

彼は幼少期、自分に才学があまりないことをすでに自覚していたといいます。「一介の武弁」と劣等感を含めて自己評価しているように、武道で自分の道を切り拓いた一方で、自尊心も実力も自信もないという現実と対峙し続けたといえます。それが結果として「自己の獲得した地位・名声を守るために汲々と努力した」人生に繋がりました。

生涯を通じて権力欲に支配され続けた山県ですが、実際に手にした陸軍と自身の強大な権力は「功罪」となりました。

有名な歴史上の人物は、表面上の逸話の裏に隠されたその人物の本当の人となりや、違った一面が取り上げられることが多いのではないかと思います。また、人生のさまざまな場面で行動や考えに変化が起きていくのがつきものです。

山県のように、こ周囲からの評価や印象がマイナスである程度一貫していて、しかも幼少期の経験と自己評価による影響が晩年まで続いた(と思わせる)行動を取り続けた人物は、きわめて希なことでしょう。仮に政治的信念や目的のため、意図的にそうしていたとしても、です。

もちろん、山県の人物像と政治家、軍人としての側面は必ずしも直結するとは言い切れないでしょう。もし、同じように権力欲の強い人間だったとしても、軍や軍閥と無縁の人物であったならば、彼への評価ももっと複眼的なものになりえたはずです。

私が特筆したいのは、吉田松陰の「郡材の一人」」との評価です。この評価が正しいとすると、内閣総理大臣にまでなった彼は、「権力欲」を持ち、そのまま「郡材」から抜きん出てしまったからこその苦悩や葛藤、矛盾を抱えて生きることとなった。

本来、「郡材」には郡材としての大切な役割があります。おのれの務めと自覚して全うすればもはや”ただの郡材“ではなくなります。それは誰にでもなしうることではありません。彼の欲した「権力」は、「郡材」としての若い頃の自分とはかけ離れたものだったに違いありません。

ときに、私たちは人生において、ずっと自分への評価をされ、自分自身でも自分に評価をし、その評価を気にして生きざるをえません。

「気にする」ということはプラスでもあり、マイナスでもありますが、私たちが苦しむのは、周りからの評価と自己評価の食い違いです。

ですが、自分の受けたい評価を望むあまりに自己演出にかじりついたり、過去にとらわれつづけ、周囲に不安定な自分をぶつけるだけになって健全な思考と行動ができなくなってしまうようでは、その「自己演出」は自分にとって適切ではないでしょう。山県は、自分の過去の受け止め方と自己評価を変えるきっかけをつかめないままに生きて死んだといえるのではないでしょうか。

現代に生きる私たちにとって、周囲から「評価」を受ける経験は、一人前の社会人になるための、いわば通過儀礼です。学生時代は、それはおもに学業成績でしたが、社会に出れば、点数ではないあいまいさをもって評価されます。

自分ではどんなに納得のいかない「評価」も、そのまま受け入れなければならないのが人生です。そして、自分のほしい評価は、自分が変わることによってのみ得られます。たんなるスキルアップだけでなく、心身の充実と向上も必須です。

地球上の生物の長い進化の過程は、周りの環境の変化に対する「適応の歴史」です。

「変わりたくない」「変えたくない」「このままでいたい」「これまでどおりがいい」という稚拙な願いは、「環境に適応できない」「変化に対応できない」ことにつながり、いずれ悲劇的な結末につながりかねません。

ここ無鄰菴で、静寂と東山を借景にした庭園のおおらかさに包まれながら、山県の生き方に思いをはせ、自己と向き合う時間を過ごせました。これからも人生のさまざまなステージにおいて、ふと自分のあり方を見つめなおしたくなったとき、きっとこの場所に訪れるだろうと思います。