講師ブログ
2019年12月21日
平等院〜末法の時代の信仰とわたしたち
極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ
『扶桑略記』より~
この「宇治の御寺」こそ平等院である。
十円玉の表の絵でよく知られている鳳凰堂。その扉画に、大和絵風九品来迎図が描かれている。
赤衣の阿弥陀如来が、山の尾根をつたうようにして、18人の菩薩と来迎する。一方で、臨終のせまった人は、ごく日常の生活を送る場にいてそれを待つ。
「迎えられること」そして「待つこと」は、死を悟った老人が「お迎えを待つ」という表現をする根本であるのだろう。
さて、もとは道長の別荘であったこの建造物が頼通の手によって「平等院」へと改められたのが、永承7(1052)年。仏教における「末法」に入ったちょうどそのときだそうだ。
末法とは、釈迦の入滅から1000年から2000年を経たあとの1万年間とされている。
釈迦入滅後のはじめの1000年は「正法の時代」といい、釈迦の教えがそのまま正しく残る。だが、そのあとに続く1000年は「像法の時代」といい、正法の「像」の教えになる。さらにその後が「末法」。仏教は形だけで中身のないものとなってしまう。
興味深いことに、末法の時代には、なにか具体的に悪い出来事(たとえば天変地異など)が起こるというわけではない。
仏教のなかでの争いや僧侶の堕落などで、仏教の精神が失われてしまい、正しい修行が行われず悟りも開かれないことそのものが「末法」なのである。
ある理想とされる正しい考え方が、それをうちたてた人物が去ったことにより、その精神性がだんだん薄れていき形骸化するということは、どの組織にもあることだ。
たとえば社訓などに代表される、さまざまな標語やルールなどは、作った瞬間こそが最高のときである。
それが貼り出されて、ことあるごとに守ろう守ろうと叫ばれるほどに、逆説的に人はそれを意識しなくなっていく。まさに形骸化してしまい、「分かっているがやる意味や目的は知らない」という状況になる。
それに立ち会うはめになる人間は、かつての理想とした組織の形を懐かしみ、それがなくなった「いま」を嘆くばかりである。
そして、ひどい場合には「新しく変わってしまった」ときを生きる者への無理解へと変わっていく。
”末法”はあくまで仏教の事柄であるものの、「ある教えのその後」という観点では、非常に示唆に富むのではないだろうか。
末法の到来を恐れた人々は、極楽浄土に往生したいと願う。それが、鳳凰堂をはじめとする極楽浄土の具現化だった。
平等院には鳳翔堂というミュージアムがある。足を踏み入れたとき、ただの「見学」であった平等院の訪れがガラッと変わり、まるで本当の極楽浄土を見ているように感じられたのを覚えている。
同時に、いまでも強烈に印象に残っているのが「不安感」だった。それは、なにも藤原頼通が思いをこめて建てたからだとか、平安末期に起こった歴史的事件だとか、末法思想を聞きかじっていたからというわけではない。
平等院の建造物も、阿字池も、阿弥陀如来も雲中供養菩薩も、美しいもの、安らぐものとして存在する一方で、「いま」を否定するような強さを秘めている。
もしかしたら、極楽浄土が「死」あればこそ成り立っているのと同じで、すべてのものは変わりゆくことを大前提として受け入れて、人は生きていくべきであり、それこそが本当の極楽ではないかと思う。