真花塾にほん伝統文化プロジェクトカテゴリー記事の一覧です
2023年2月6日
千本釈迦堂〜おかめの福顔に秘められた思い

「千本釈迦堂」は通名で、正式には大報恩寺という名称です。吉田兼好の『徒然草』第二百二十八段には「せんぼんの釈迦念仏は、文永の比、如輪上人、これを始められけり」とあります。
釈迦念仏は釈迦の涅槃に因んで「南無釈迦牟尼仏」を唱えて菩提を祈願する念仏で、二月九日から二月十五日まで行われます。「文永」とは1264年から1275年の、亀山天皇の時代です。また、「如輪上人」は浄土宗の僧で大報恩寺の二世です。
兼好がこれをわざわざ書き残した意図はわかっていませんが、個人的な覚書の一つではないかと言われています。
さて、この千本釈迦堂には大きな「おかめ塚」があります。彼女は「阿亀」といい、とある大工の妻でした。彼女のお顔は、私たちも日常でよく目にしています。下ぶくれの色白でほっぺが赤く、目を細めてにっこり微笑む、あのお顔です。福のお面といえば、すぐに思い浮かぶ方も多いでしょう。
本堂建立にあたって棟梁に命じられたのは長井飛騨守高次という大工で、超一流の大工の棟梁と言われていました。
本堂は正面の桁行五間、側面の梁行六間、さらに正面には一間の向拝という、鎌倉時代初期においては非常に大きなものです。柱には当然巨木が必要で、その材木は紆余曲折がありながらの調達となりました。
しかし作業において、高次は大事な4本の柱のうちの一本の寸法を誤って短く切り落としてしまいました。代わりの材木が見つからないまま工事は頓挫し、どんどん工期が迫って来ます。
そのピンチを救ったのが阿亀でした。
彼女は何日も願掛けをするうちに、厨子の中に斗栱(ときょう)を膝に抱えた釈迦の姿を見たといいます。斗栱とは、建築の手法の一つで、中国の木造建築で柱の上に置かれて、軒桁を支える部位のことです。
阿亀は、短く切り落としてしまった一本の柱と同じ長さにあえて他の3本の木材を切り揃え、柱の上部に斗栱を取り付けるように、高次に助言をしたのでした。これによって本堂の建築の遅れを取り戻せたといいます。
こうして無事に上棟の日を迎えた高次ですが、阿亀はこの高次の成功が、建築について明るいわけではない自分の助言に救われたからだと、世間に知られることによって台無しになってしまうことを恐れ、夫の名誉を守らんとして、上棟式の前日に自害していました。
境内の「おかめ塚」は彼女の供養塔です。
いまでも建築の新築や改築工事のときに上棟式に「おかめ」が飾られる風習が残るのは、阿亀の女徳が転じたものです。縁結びや夫婦円満などのご利益があるといわれています。
また本堂が、応仁の乱の戦火から逃れて無事だったことと相まって、土木や建築業者からの信仰を集めています。
災い転じて福となす。阿亀の物語には悲しみと感慨がありますが、阿亀が自分の大切な夫であり、超一流の腕前を持つ大工の棟梁である高次を思っていたその気持ちにこそ、「おかめ信仰」の本当の意義が見出せるのかもしれません。
妻ではあっても夫との立場の違いをわきまえ、夫の専門性に口出しする結果となったことや、夫の名声の一部に自分が含まれてしまうことを良しとしない。
お面や商品キャラクターのモチーフとして、よく目にする阿亀ですが、これから自分の人生をおそらく誇り高く幕引きしたであろう彼女に思いを馳せて、ふっくらにっこりと笑うお顔を見つめてみるのはいかがでしょうか。
2023年2月6日
妙顕寺〜法華宗と花開く上京の町衆文化

妙顕寺は元亨元(1321)年に日蓮の六老僧の一人である日像によって建立された、日蓮宗のお寺です。日蓮は入滅の際、日像に京の都での日蓮宗の布教を託しました。
日蓮宗はその後、裕福な造酒屋である柳屋仲興が法華宗に帰依するなどして、だんだんと京の都の有力な町衆に広がっていきました。
比叡山延暦寺からの圧力を受けつつも、応仁の乱などの混乱を経て、武力を持つようになり、さらには町衆だけでなく近衛、九条、鷹司などといった有力貴族の中にも支援者が現れるようになり、京での影響力を得ていきます。
町衆は商工業者の自治共同グループですが、寛正元(1460)年には彼らの大半が日蓮宗に帰依したといいます。
日蓮宗が現世主義で現世利益を求めた教義であることと、日蓮が、末法の乱れた世を救うためにさまざまな過酷な法難を乗り越えた生涯を送ったことなどを、営利のため困難に立ち向かって力を尽くす日々を送る町衆たちの心情を惹きつけたのだと言われています。
一時は上京、下京を合わせて60もの日蓮宗寺院が建立されましたが、天文5(1536)年の天文法華の乱によって、下京が焼き払われたことによって上京での法華宗の持つ役割が多くなりました。
技術力と政治力とを兼ね備える町衆は、権力者からの需要を独占するようになり、それに伴い、文化の大きな担い手となります。
例えば本阿弥光悦で知られる本阿弥家、絵師である狩野家や長谷川等伯、茶碗師の樂家など、日本文化を代表する人々が、日蓮宗によって、町衆同士のつながりを持っていました。
そのうちの一つである呉服の雁金屋は、江戸時代の絵師である尾形光琳の生家です。狩野家の流れを汲みつつも、流派にとらわれず自由な画風を持った光琳は、絵師としての名声と富を得ます。
いまでは「琳派」としてその芸術は私たちに感動を与えてくれています。
妙顕寺には光琳が手がけた庭園があったそうです。天明の大火(1788年)の後に彼の作品を模した庭が造られました。光琳の百回忌に酒井抱一が奉納した「観世音図」ゆかりの「抱一曲水の庭」では、花々や水琴窟を楽しめます。
このように妙顕寺は、長い年月で苦難を乗り越えながら生み出され、受け継がれてきた人々の営みを、ともすれば単なる「観光スポット」「伝統文化」とひとくくりの言葉で捉えがちになる私たちに、歴史的背景や文化的教養の学びの入り口へと誘ってくれます。
目の前にある建造物、芸術の数々の持つ人々の思いや願いは、造られた当時はもちろん、時代が下ったいまとなっても、形は変わることこそあれ、その強さや大きさは変わらずに受け継がれていくことでしょう。
2023年1月8日
智積院障壁画からみる“個“の長谷川等伯

等伯が出身地の能登から京の都にやってきたのは、33歳のことだったそうです。それまでは絵仏師として活躍していましたが、仏画だけでなく絵師としての仕事を京に求めたといいます。
その頃、都では狩野永徳の狩野派が、時の権力者である信長や秀吉、さらに朝廷からの絵画の依頼を一手に引き受ける組織となっていました。もちろん等伯に、すぐに絵師としての大きな仕事があったわけではありませんでした。
新天地で新たに自分の力を試そうとするなら、過去を捨てて活動することを思い立つ人も多いでしょう。このときの等伯の心境は定かではありませんが、まずは自身ならではの強みであった「絵仏師」としてのスキルをチャンスに変えようとしたようです。
自身が帰依する日蓮宗である、本法寺に仕事のツテを得たとみられています。また、信長の菩提寺となっている大徳寺総見院の障壁画を描いた際には、茶人としても知られる堺の商人たちのツテだったのではという見方もあります。
このように京での活動を続けていた等伯は、53歳のとき、秀吉からいまの智積院に障壁画として残されている絵を依頼されます。それは、秀吉の子であり3歳で亡くなった鶴松の三回忌法要が行われる部屋の障壁画でした。
等伯は33歳から53歳まで、実に20年を京で過ごしていましたが、都での狩野派一強体制に入り込むことはできずに、たとえば御所の障壁画を描く仕事は、その狩野派の強い反対にあったこともあります。
狩野派といえば、室町・戦国・安土桃山、そして江戸と続いた画家集団で、先祖から伝わる絵の手法を忠実に継承する画風です。永徳は安土城、大阪城、聚楽第の障壁も描きましたが、前述の秀吉からの障壁画の依頼の時点で、彼は死去しており、狩野派は足元が揺らいでいました。鶴丸の法要のための障壁画も、永徳の死がなければ狩野派が請け負うはずだったとされています。
自分を妨害する人物がいなくなったことは等伯にとって大きなチャンスとなり、結果として後世に、いま智積院に残る「楓図」をはじめとする傑作障壁画群を残すこととなりました。
等伯は狩野派とは異なり、組織的に弟子を持つことはなかったといいます。そのため、決まりきった画風を持たず、等伯の芸術性をそのまま絵に表すことができました。そもそも、もとは絵仏師であった彼が京に出てきて、動植物をも描いていたことからも、その自由度や幅の広さが分かります。
等伯について述べられた言葉に、このようなものがあります。
「さまで利発なる老人とも、見えざねども、その道に心をつくし修行せし者の云ふ事には、よくきこえたる事あり」(『結縄集』)
「老年二及ンデ筆力衰エズ、麁悪ノ瑕悪有リと雖ドモ又豪気の風体有リ。時輩之二及ブ者ナシ」(『本朝画史』)
これらからイメージされるのは、等伯の絵描きとしての矜持と、権力や組織とは距離を置いた生き方です。周りには利発な老人とは見えなくても、粗末で質が悪いを言われても、絵の腕前だけは確実に認められていたというのは、画家にとっては何よりの賞賛であるはずです
いま智積院にあるこれらの障壁画のうち、とくに「楓図」「松に黄萄葵図」にみられる”楓以外””松以外”の植物描写は、狩野派にはない、等伯ならではの独創的な描写であると言われています。
メインとなる「楓」や「松」こそ、狩野派の影響を受けた(つまりよく似た)描かれ方をしていますが、圧倒的な違いはそれらの木の根元に描かれた草花です。「抒情的」と表現される、まるで等伯の草花に寄せる感慨深さや切なさ以上の感情が表れた描写表現が、等伯の強烈な”尖り”となっています。
その背景には、等伯の持つ狩野派と異なる独自性だけでなく、鶴松の法要のための障壁画の制作にあたり、等伯の息子久蔵の史が時期的に重なってしまったことも要因だと言われています。
絵の依頼主である秀吉は、当然鶴松を想っていたでしょう。そしてその気持ちは当然第三者も理解していたと思われますが、愛息を亡くすという境遇を本当に「共感」できたのは当時の等伯をおいてほかになかったでしょう。
久蔵は等伯とともに、この障壁画の仕事を受けて制作にとりかかっていました。うち「桜図」は久蔵によるもので、彼は将来を嘱望されながらも、この絵の完成直後に急死してしまいました。鶴松の法要の2か月前だったといいます。それでも等伯はこの仕事を最後まで全うしました。
仮に狩野派がこの障壁画を請け負っていた場合、等伯のような「個人のできごと、感情の揺らぎ」は絵画に反映されることはなかったでしょう。それほど狩野派は組織的かつ画一的な画風であり、対する等伯は”個”の絵画でした。
つきつめてみると、等伯のこれらの逸話からは”個”を巧みにバランスよく、それでいてまっすぐに仕事にも反映させる度量が「傑作」を生みだすのだということに気づかされます。
現代を生きるわたしたちや、これからの時代の社会を担う若者のなかには、仕事とプライベートの線引きを明確にすることに意義を見出したがることが多いです。とはいっても、完全に「仕事は仕事」」と割り切って組織の中での役割に徹している”だけ”の人間には、思い入れのある大切な依頼であればあるほど、気持ちのすれ違いが起きることもあるでしょう。
人間力、人間性といえばそこまでですが、やはり”個”の重みは仕事を通してであっても、周囲への影響力、感動を誘う力に昇華するものだと思います。等伯の障壁画群は、いま智積院で私たちに等伯の絵画スキル以上に、等伯自身を語ってくれています。
2022年7月18日
古文を訪ねる, 真花塾にほん伝統文化プロジェクト, 講師ブログ
北野天満宮〜梅は飛ぶとは何事か

北野天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真を祀る神社です。
彼は代々学者の家系に生まれ、彼自身も漢籍、和歌、書の才能にあふれていただけでなく、優れた政治家でもありました。いま「学問の神様」として多くの人にとっての受験シーズンの支えとなっているのも、頷けますね。
ところで彼が政治抗争に巻き込まれて太宰府に流罪となった際に詠んだ和歌はとても有名です。
東風吹かば
思ひおこせよ
梅の花
あるじなしとて
春を忘るな
そして、主人を追って太宰府まで梅の木が飛んで行ったという、いわゆる「飛梅伝説」につながっていきます。でもちょっと待ってください。梅の木がどれだけ道真を恋しがったとしても、木そのものが本当に飛ぶわけがない。「伝説」を本当の意味で楽しみたいなら、やはり伝説が生まれた背景をも知っておくことも大切です。
実はこの歌、「北野天神縁起絵巻」(道真の伝記、死後の祟り、天神社の創建の由来などが書かれたもの)のには、もう一首収められてセットで残されています。詞書も含めて紹介しましょう。
住み慣れ給いける紅梅殿の懐かしさのあまりに、心なき草木にも、契りを結び給いける
東風吹かば
匂いおこせよ
梅の花
主人なしとて
春を忘るな
桜花
主を忘れぬ
ものならば
吹き込む風に
言伝はせよ
さて、この御歌の故に、筑紫へこの梅は飛びまいりたちとぞ、申し侍るめる
道真が心を寄せ、残してゆく家族や都への思いを託したのは、梅の花だけではなく桜の花もあったとされているのです。なのに、その道真の思いに応えて飛んで行ったのは、梅だけ。桜はいったいどうなったんでしょうか。
当時の人々にとっても、梅だけが飛んで行って桜については言及されないというこの内容については、なかなか落としどころが見つけられなかったそうです。
時代が下って江戸時代初期の『洛陽北野天神縁起』では、先ほどの梅と桜の二つの歌に、こんな詞書がつくようになりました。
哀れなるかな、梅は万里の波をしのぎて、安楽寺へ飛びてけり。桜は三春の風にも開かず、すなわち枯れにけり、飛梅枯桜とはこの時の事とかや。
梅は道真を慕って太宰府へ飛び、一方で桜は道真がいない嘆きから、春になっても花を咲かせることなく、そのまま枯れてしまった。後付けとはいえ、誰もが納得し感動できるであろうお話となっています。
伝承とは、ある事件が起きた際にすぐそのまま伝わったものではなく、その後時間をかけて作られ、語りづがれながら、「いかにも本当だったかのように」手が加えられていったお話です。
もはやこの段階では、太宰府への左遷を言い渡されて嘆く道真の姿以上に、なんとかして「梅と桜のバランスを取ろう」と悪戦苦闘する縁起の書き手たちの姿のほうが、強く私たちの印象に残ります。
歴史において「史実は事実である」という揺らぎようのない側面もありますが、一方で史実と同じくらい「作られた歴史」もまた揺らがない土台となっていくこともあります。一見相反するこれらの動きを、俯瞰して読み取ることこそが、歴史を意義ある学びにする上では重要なのです。
さて、ところで本来飛ぶはずのない「飛梅」は、どうして飛んだこととなったのでしょうか。実はここのところはどうやらはっきりとはされていないようですが、これも後世によって作られたお話です。12世紀末に平康頼によって書かれた『宝物集』上には、「其後此歌ニ依テ、彼梅、主ヲ慕ヒテ安楽寺ヘ飛ヒテ」とあることから、経緯は不明でも、すでにこのころには「梅は飛んだ」という伝承が出来上がって広まっていたとされています。
先ほどの「梅は飛んだ、では桜はどうなったのか」という素朴な疑問と、後の時代の人たちによる辻褄合わせは、そもそもなぜ梅が飛んだか、ということが説得力を持って受け入れられなかったがゆえの動きだといえます。
興味深いのは、飛んだ梅の木と枯れてしまった桜の木に加えて、また他の植物が伝説に入れられていったことです。室町時代末期の『天神絵巻』には、都で梅と桜とともに道真が愛ででいた松の木が、太宰府行きに際してつれない態度を取ったので、道真が「梅は飛んできてくれた、桜は自分を思って枯れてしまった、なのに松はつれない様子だ」と言ったら、松はとうとう、梅がしたのと同じく太宰府へ飛んで行ったということが書かれています。
面白いですが、ここまでくると完全に創作の域に達してしまったようで、かえって興ざめしてしまう人も多いのではないでしょうか。脚色も過ぎれば逆効果ですね。
ただし、どうしてもここで「松」を仲間に入れておかなくてはいけなかった理由もあります。それは、元々天神信仰においては「松」がシンボルであったということです。道真が祭神となり、「飛梅枯桜」の伝承がなされるにつれて、「それなら松だってエピソードに入れておかなければ」との思いが、きっと誰かの心に湧き上がったのでしょう。
「東風吹かば」の歌は、中学生や高校生向けの古文の設問にもよく取り上げられますが、こんな深い背景を合わせ持っていたとは知りませんでした。実は桜も松もあったんだよと、天満宮を訪れるときにはぜひ思い返したいですね。
2022年5月4日
醍醐寺〜秀吉の栄華と憂いの”花見”

醍醐寺と聞いて思い浮かべるものは、なんと言っても桜。紅葉ももちろん絶景ですが、やはり「醍醐の花見」という言葉に象徴される、桜の季節の醍醐寺は、それこそ春の「醍醐味」といえます。
その「醍醐の花見」は慶長3(1597)年、秀吉によって大規模に行われた花見です。自身の死の前年だったことから、死への恐怖に抗うためとも、死を悟ったためともいわれています。
桜の花が一気に満開になったかと思うと、あっという間に美しく散っていく。日本人にとっては昔から、桜は美しい一方で「死」をはっきりと意識させてくれる存在だったのでしょう。
現代において花見といえば、満開の桜を見ながら飲めや歌えの宴会をすると思われがちですが、その原型を作ったのが秀吉の「醍醐の花見」とされています。主催者である秀吉自身による、奇抜なアイデアと周到な準備によって、人を楽しませる趣向に特化した花見となったわけです。
醍醐の”花見”は”茶会”だった
醍醐の花見は、秀吉と正室のおね、側室たちをもてなす茶室が8つも設けられました。
天正15(1587)年に秀吉によって開催されていた北野大茶の湯が、茶の湯を好む者であれば身分関係なく、誰でも茶屋を造って楽しむことができたのとは対照に、醍醐の花見での茶会は限られた人間しか参加ができませんでした。
秀吉の人たらしのイメージは強烈なものですが、そのような開放的な性格の秀吉も、この最晩年の「醍醐の花見」は大衆とは一線を画して開催しました。
秀吉はこの花見を、朝鮮出兵をはじめとする自身の抱える鬱々とした苦悩の日々の憂さ晴らしとするために催したともされており、ある意味で自分と家族、近しい者たちのためだけの特別な企画だったといえます。
美しく着飾った女性たち
この花見においては、女房たちの装束一人あたり、たとえば豪華な小袖と帯が三つずつ、それが1,300人分。女房たちはお色直しもしながら着飾り、そして美しさも競うことになったのでしょう。
驚くべきことに当日は、そのせっかくの花見の席に、息子秀頼や前田利家以外の男子は近寄れませんでした。三里(約12キロメートル)も離れた場所から遠巻きに見物するように秀吉に言われたといいます。彼らのため息が聞こえてくるようですね。
とはいえ女性を、男性の目からあえて遠ざけたところで、美しく着飾った姿によってワイワイ楽しませようというアイデアは、やはり秀吉らしいというべきか、女心をよく知っているなと感心させられますね。
ちなみにその大勢の女房たちの装束すべての仕立てを命ぜられたのは、薩摩の島津氏。いまでいうところの40億円ともいえる経費のしわ寄せは、結局薩摩の農民たちへの年貢の取り立てなどに反映されていくことになってしまうのですが・・・。
ふやせよ桜
もともと「醍醐の花見」以前から、秀吉は桜を愛でに何度も醍醐に通っていました。「花見」を思い立ってから、桜の木を数百本(700本とも)植えさせて、豪華な花見をするにふさわしい場所として手を加えていったといいます。
皆で花見をしよう、さてそれならば、桜をもっと植えよう!この秀吉の無邪気ともいえる大胆な発想は、彼に死期迫っている事実と重なったことにより、私たちに複雑な感慨深さをもたらします。
先述のとおり、この醍醐の花見は、秀吉が妻たちと子の秀頼と人生最後の楽しい時を豪勢に過ごす場でした。その晴れ晴れしい一日、秀吉の気持ちはいかばかりだったのでしょうか。
恋しくて
今日こそ深雪花ざかり
眺めに飽かじ
いくとせの春
秀吉がこの日詠んだ歌のひとつだと伝わっています。
満開の桜の花を雪に見立てると同時に、醍醐寺の山号を「行幸(みゆき)があった」ことにちなんで「みゆき山」と変えるのはどうだろうかという、秀吉の思いにより「深雪」との言葉が入っているのだそうです。
醍醐寺は実際に、その後「深雪山」の山号を持つようになりました。
秀吉の栄華の象徴でもありながら、晩年の憂いや翳りもよみとれる醍醐の花見。そして彼が家族とごく近しい人たちを楽しませるためだけに遊んだ花見は、一方で大名たちの静かな憤りが聞こえてくるような不穏さと、秀吉亡き後に待ちかまえていた動乱の予兆となるのです。
2022年1月30日
コミュニケーション, 真花塾にほん伝統文化プロジェクト, 講師ブログ
安宅の関・安宅住吉神社~「判官びいき」と”しきたりと礼儀作法”のコミュニケーション

歌舞伎の『勧進帳』や能《安宅》でよく知られる、源義経一行の逃避行のひとつの場面、安宅の関での富樫との攻防。義経を守らんと機転を利かせ、ないはずの勧進帳を高らかに読み上げる武蔵坊弁慶の姿と、義経と弁慶との主従の絆の深さが中心に描かれ、人々の感動を誘います。
もととなったストーリーは『義経記』という南北朝時代から室町時代に成立したとされる物語で、作者は不明です。しかしその前にすでに人々に知られていた『平家物語』に、少なからず影響を受けて書かれたものと言われています。
また、「判官」と呼ばれていた義経が由来となった「判官びいき」という言葉は、辞典によると「悲劇的英雄、判官源義経に同情する気持ち。転じて、弱者・敗者に同情し声援する感情をいう」とあります。
いまの若い皆さんのなかには、身近にこの言葉を聞いたり使ったりすることはなくても、「弱者・敗者に同情し声援する感情」には誰しも心当たりがあると思います。
さて、源頼朝の異母弟である義経が、現代まで受け継がれる悲劇的英雄としてイメージされるようになるまでには、いくつかの要因が重なり合っています。物語の舞台となった安宅の関と安宅神社の写真とともに楽しんでいただければと思います。
『平家物語』は目で読む≠耳で聞きイメージする
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」と有名な冒頭で始まり、平家一門の隆盛と凋落を語る『平家物語』。はじめから文字で書かれたものではなく、琵琶法師という盲目の琵琶弾きによる弾き語りの作品です。
あぁ言われてみれば、と思った方もいるかもしれません。中学生のころ、学校の国語の授業で、「祇園精舎の鐘の音」からのフレーズの暗唱テストがあった人も多いでしょう。「なんでこんなの覚えなくちゃいけないんだー!」と文句を言いつつ、いざ暗唱できるようになると、言葉の七五調のリズムや対句の気持ちよさが楽しく感じられるものです。
そう、この物語は耳で聞き、平清盛をはじめとする平家一門の活躍や悲しみの場面を聴き手がイメージしてこそ成立します。聴き手側それぞれがイメージし、それに感情移入することができるのは、いまのラジオドラマの良さと重なる部分がありますね。一の谷の戦いの鵯越の逆落とし、壇ノ浦の戦いで義経が見せた八艘飛び。「戦の天才」と評価される義経がドラマチックに描かれます。
当時、目で文字として読む書物であれば、広く庶民に『平家物語』も義経も知られることがなかったでしょう。聴く物語であったのが、義経ファンを作り、判官びいきという言葉を根付かせたと言えます。
源氏の御曹司でありながら「平家側」で育った義経の生い立ち
義経の父は源氏の棟梁である源義朝で、母は庶民の娘であった義朝の愛妾常盤です。保元の乱で義朝が京から敗走したとき、義経はまだ物心のつかない赤ちゃんでした。常盤は源氏方の負け戦に窮地に追い込まれ、平清盛のもとに、義経を含む三人の男子を連れて出頭します。
美しい常盤は清盛の妾となって女子をもうけたのち、公家の一条長成に嫁ぐことになるのですが、義経はその流れの中で、父から源氏の男子としてのしきたりや振る舞いを学ぶこともなく、嫡子の頼朝と交流することもなく、うまく源氏の礼儀作法も身につけることができなかったとされています。
こうして義経は、11歳で鞍馬寺に預けられるまでは、源氏どころか平家の膝元でさまざまな人間模様を見聞きする結果となりました。数年後、僧にはなりたくないと鞍馬寺を出て、奥州平泉の藤原秀衡を頼り、頼朝と対立することになっていきます。
コミュニケーション不良は共通認識が「共通」でなくなったときに起こる
頼朝が、母が違うとはいえ弟である義経に不信を持ったことについて、なんとひどい、戦上手な義経なのに、兄に拒絶されて自害に追い込まれるなんてかわいそうだ、という見方もあります。
ただ、さまざまな歴史家が指摘していますが、とくに源平の戦いの中で、義経が兄を軽んじる行動を重ねてしまったことは確かです。義経は戦の現場で強さを発揮しましたが、離れた地にいる頼朝に対して、しっかりとコミュニケーションを取ろうとせず、頼朝からの命令に従わないこともありました。
コミュニケーション不良というのは、つきつめると、大事なことを報告・連絡・相談しないときと、「こんなことは言わなくても分かるだろう」といって、話す以前の共通認識が食い違ったときに起こります。
こう考えてみると、コミュニケーションにおいて重要なのは、若い人たちがこだわりがちな”正しい言葉遣い”というわけではないことに気づきます。「相手がなぜこのように自分に言ってくるのだろうか」と思いをめぐらせてみたり、「相手が求める自分からの行動はなんだろうか」と相手に確認してみると、余計な緊張や萎縮なしにスムーズに意思疎通ができるでしょう。
言葉だけでは解決しない、各自身につけた行動である「しきたりや礼儀作法」も、相手との関係を良好にも不良にもするものです。義経は、幼い頃に育った環境や事情で、源氏の男子が当然知っているべき「当たり前のしきたりや礼儀作法」を知ることがありませんでした。一方頼朝も、義経にそれを教え諭す機会と余裕もないままに、対立を深めてしまいました。
現代を生きる私たちもみな、育った環境や「こうあるべき」という感覚は、人それぞれ違います。人生の年代のステージにおいて、その環境と感覚が違う人同士が出会い、ともに過ごして切磋琢磨して、しかるべきタイミングで別れていきます。
もちろん「判官びいき」は、義経に端を発し、すばらしい物語によって語り継がれてきた、大切な日本人の心を示すものです。でもだからこそ、歴史上の人物としての義経が実際にどのように生きたのかを知り、さまざまな側面からものを考える視点を持ってみると、よりその「心」が分かるてしょう。